阿久津あくつ 雅信まさのぶ さん | 浪江町

阿久津あくつ 雅信まさのぶ さん | 浪江町

有限会社アクツ 代表取締役

新店舗での再スタート

今年(2019年)6月21日、浪江町権現堂で「アクツ電機」の営業を再開しました。東日本大震災前、浪江に家電店は10軒くらいあったかな。でも町内で再開しているのは現在うちだけです。以前の店舗は今の場所ではなく、浪江駅前にありました。父が始めた店で私は2代目。おかげさまでこうして再開後も、新旧たくさんのお客様にご利用いただいています。

私は大震災後、秋田県の由利本荘市に避難して1年間暮らしましたが、翌春には南相馬市原町区に戻って電機店の仕事を再開しています。実は震災の2か月後くらいから、もう依頼の電話がバンバンかかってくる状態だったんです。原町で再開してからは、避難先で事業再建するお客様のエアコン設置や電気工事などで、中通りも浜通りもずいぶん回りましたよ。さすがに会津だけは(遠すぎて)お断りせざるを得ませんでしたが。

(2013年春の区域再編で)浪江町の立入りが可能になると、町内での仕事も始めました。家屋を片付ける際、エアコンの取り外しは私のような業者がやる必要がありましたからね。やがて準備宿泊が始まると帰町に備えたお宅からの依頼も増え、(2017年3月末に)避難解除になってからはとにかく忙しい日々が続きました。アクツ電機も本当は解除後すぐ町内で再開したかったのですが、準備にいろいろ時間がかかり、自宅のあった場所に店舗を新築して今年やっと再スタートを切ることができました。

様々なつながりに助けられて

大震災前、私は浪江町商工会青年部の活動も精力的に行っていました。青年部では2008年に浪江焼麺太国(なみえやきそばたいこく)という団体を立ち上げ、「なみえ焼そば」を使ったまちおこしをスタート。私が青年部長に就任した2009年のB-1グランプリ*に初参加を果たし、翌年には「東北4大やきそばサミットinなみえ」を開催して大成功を収めたのです。いよいよこれから、というとき東日本大震災が起きてしまいました。

*B-1グランプリ:ご当地グルメを通したまちおこしを目指す団体による共同PRイベント

3月11日午後に地震が起きたとき、私はリフォーム工事の現場にいました。最初は、津波が来るという防災無線で避難したんです。その晩は家族を連れて浪江中学で過ごし、翌未明に警察が来て、こんどは原発が大変だから津島へ避難せよと。それで私たちは朝早いうちに津島活性化センターに着き、仲間たちと自主防衛組織を作って、次々と避難してくる住民の交通整理などしていました。12日午後の(1号機の)爆発の煙を、屋外にいた私は実際に見ています。テレビでその映像が流れると避難所はパニックになりました。それで、当時まだ1歳と5歳の子どもを抱えていた私はすぐにそこを離れる判断をしたんです。福島市内で2晩過ごし、夜中からガソリンスタンドに並んでわずかばかり給油したあと、山形方面へ向かいました。14日の朝のことです。途中の栗子トンネルで(3号機の)爆発のニュースを聞いて、「ああ、もうこれで福島は封鎖だな」と思ったのを覚えています。

米沢、肘折温泉を経由して、その後しばらく落ち着くことになったのが秋田県の由利本荘市です。仕事を通して知り合った市内の電機店が呼んでくれたもので、そこへ行くためのガソリンも、別の知り合いの同業者が湯沢からわざわざ運んできてくれました。本当に助かりましたよ。由利本荘では、ご当地グルメの「本荘ハムフライ」でB-1を目指しているまちおこし団体の方と運よくつながることができ、いろいろよくしてもらいました。4月初めには市営住宅に入居し、5月末からは市役所の観光振興課の臨時職員として働き始めることができたのも、こうやって仕事やまちおこしを通じてつながった皆さんの助けがあったからこそです。本当に有難かったですね。

観光振興課では情報発信を担当するとともに、本荘ハムフライの皆さんと一緒にイベントを企画したりして楽しく仕事させてもらいました。ただ、前述のとおり以前のお客様からの問合せが絶えなかったのと、やっぱり公務員は向いてないなと感じたこともあって(笑)、1年で退職。南相馬市での再スタートを決心したんです。このときは単身で戻らざるを得ませんでしたが、その後2013年に宮城県岩沼市で家を借り、再び家族と暮らせるようになりました。岩沼を選んだのは、中通りへも浜通りへもアクセスがいいから。その後、仕事場のある原町への引越しも考えましたが、子どもたちをこれ以上転校させたくなかったこともあり、2015年には自宅も岩沼に再建しました。

この先はもうプラスしかない

あの日の栗子トンネルでは「もうダメだ」と思いましたが、その後放射線についてもずいぶん勉強しましたし、仕事を通してずっと浪江町の様子を見ているうちに、これは帰れる、帰りたい、という気持ちが強くなっていきました。このたびやっと町内での店舗再開が叶いましたが、実際に仕事の需要は多いですし、町の復興は確実に進んでいます。家屋解体が進んで見慣れた景色が変わり、悲しいという人もいるけど、それは考え方次第。かえって見晴らしがよくなったり海からの風が通るようになったりして、いいなと感じています。

私たち浪江焼麺太国も、2013年のB-1グランプリ優勝をピークに一つの役割を終えたように思います。離れ離れの「麺バー」の活動はますます難しくなり、B-1出場も終了しました。ただ、この団体の活動が終わっても、まちづくりはまた新しいステージに向かって進んでいきます。浪江にとって、この先マイナスはなくプラスしかありません。ゼロから新しい町をつくるんだと考えれば、楽しいですよね。

2019年11月取材
文/写真=中川雅美

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