渡辺わたなべ 信彦のぶひこ さん | 楢葉町

渡辺わたなべ 信彦のぶひこ さん | 楢葉町

楢葉町役場 教育委員会
出身:楢葉町

変化を受け止めて楽しんでいく

私は楢葉町の繁岡出身です。保育所に行かないで、じいちゃん・ばあちゃんに育ててもらっていました。そのため、じいちゃん、ばあちゃん子なんです。
家には家庭菜園をするには大きいくらいの畑があって、よく畑いじりをしてました。その影響だと思いますが、花とか虫とかには小さい頃から興味があったんです。
高校はじいちゃんのすすめで双葉高校に進学しました。歴史や動植物が好きな私は理科部の部長になり、のめりこんでやっていました。レッドデータブックというのがあるのですが、その空白を埋めてやろうなんて思って。砂浜を歩き回って個体数調査をして、実は見落とされているものがあるはずだと。
高校卒業後は、親元を一度離れてみたいと考えました。遅れてきた反抗期ではありませんが、斜に構えていたんですね。都会はいつでも行けるしという思いもあり、歴史が大好きですから遺跡の多い青森の大学に行ったんです。子供の頃は引っ込み思案だったんですが、大学に行ってからですね、人と喋るのが楽しいと思えるようになりました。

大学卒業後は楢葉町に帰ってきました。卒業後すぐに楢葉町役場に勤めたわけじゃないんです。そんなに歴史が好きならどうだと勧められて、「いわき市教育文化事業団」に働くことになりました。そうはいっても非正規雇用でしたから、安定して地元で働いていこうと楢葉町役場を受け、2011年2月に内定をもらいつつ、いわき市教育文化事業団で働いている時に震災に遭いました。

あの日は、なかなか成果が出ない浪江町の発掘が続く中、ようやく壺の姿が見えた時で、一緒に働いていた浪江町の方と「やっと出た!来週から掘り起こそう」と言っていた時なんです。 
金曜日は半ドンで、1週間泊まり込んでまとまった資料をいわきに持って帰ることになっていたので、いわき市湯本で被災しました。ある橋の上にいたのですが、大きな揺れで目の前で橋にヒビが入っていくのを見ました。周りの車の人達もパニックになっていました。
ようやく職場に着くと、仙台平野が津波でのまれているのがTVで流れていました。職場の人と二手に分かれて浪江町に向かうことになり、当時車に乗りたてで走ったことのない山麓線を通りました。やっと楢葉町に着いたのは夜8時くらいで、今日は家に帰ろうという話になり、浪江の発掘現場はそれっきりになってしまいました。家の入り口の交差点には消防団をしていた親父が立ってまして、「これが災害か」と思いました。
家は停電になっており、TVも見れません。原発がやばいなんて、翌日朝8時頃に「避難しましょう」と放送がなるまで知りませんでした。その放送も具体的な指示がなく、「南に逃げましょう」とだけでした。慌てて食料を車に詰め込みいわき市を目指して…。まるで難民のようだなと思いました。また山麓線を走ったのですが、どういうルートを通ったのかは覚えていません。四倉に出たときに6号線に船が転がっていたり、車が積みあがっている風景を見て、そこで初めて津波の恐ろしさを知りました。
今思うと、ちゃんと情報を集めないといけない、情報があれば防げたことも多かったはず。それだけでなく、一歩間違えば自分も死んでしまっていたんだよなって思います。

その後、会津美里町に避難しました。町役場からの内定も取り消しだろうと思っていました。そんな時に、「恰好は何でもいいから、来てもらえますか」と言ってもらえたんです。2010年は内定取り消しが社会問題になっていた年で、先輩たちが内定を取り消される辛さを味わっていました。自分はこういった事があっても呼んでもらえるんだと、「お受けします」と連絡をしました。
私の初仕事は、避難所に届く支援物資の缶詰を数え、仕分けすることでした。避難所に100人いれば95個では不公平が出てしまう。避難された方々は全てを失ってきているんです。体育館のたった2畳ほどの中にあるもの、支援物資が全財産なんです。なので、なんとか全員に届くよう管理していました。

私は平時の町役場の仕事というものを知りません。今の楢葉町は震災前の楢葉町の姿ではありませんし、知っている楢葉町ではなくなりました。
思いもつかないことが起きて、知らない人たち、新しい人たちが活動している姿は、震災前では考えもしなかったことです。

昔引っ込み思案だった私は、今はイレギュラーな方に動くようになりました。何かあったとき、行ってみようかなで終わらせない。思ったら行ってみる。話を聞いてみよう。今日なかったことに転んでみようと。
のんびりと暮らしながら、変わっていく寂しさを感じつつも、変化を受け止め、見ることが出来なかった光景が広がることを楽しめている自分がいます。

2018年2月取材
文/写真:吉川 彰浩