秋本あきもと 浩志ひろし さん | 大熊町

秋本あきもと 浩志ひろし さん | 大熊町

社労士事務所Green
出身:大熊町

震災のせいでっていう人生は過ごしたくない

双葉高校を卒業して仙台の大学に進学したんです。5年ほど働いて大熊町に帰ってきたのは27歳の時です。親父が色々手がけてまして、町では『ナンバー1』という100人くらいが入れる歌って踊れる飲み屋をやっていましたし、ゆず農家、電気屋さん、畑も。いずれは後を継ごうと思ってはいました。
実家は原発が見える、1kmもない所にあるんです。700本くらいはあったゆずの木も中間貯蔵で今頃切られているんじゃないですか。桃栗三年柿八年っていう言葉には続きがあって、ゆずの馬鹿野郎は18年っていうんです、今からまた植えるっていうのはできませんよね。ゆずが身近にありましたから、今でも好きですし、若いころはじゃぶじゃぶお風呂に入れてよく怒られていました。今はちょっと出来ませんけども。

震災で被災した人はいっぱいいますけど、知り合いの中には親がやっている仕事があって受け継いでいる人達がいるじゃないですか、そういう人を羨ましいなと思うことがありますよ。親父がやってきたことを継いであげられなかったことは、うーん、となりますね。私の場合は大熊町ですから残しようがなかったのですけれども。
親父は北茨城にいて農業をやっています。前よりもグレードアップしたくらいです。ハウスで野菜を作ってますし、イチジクも始めました。仕事が好きな人だから。野菜なんて、もういいよっていうくらいもらって帰ってきます。

社労士の資格を取ったのは震災の時なんです。急に思い立って、昔から文書を書くということが大好きで、好きな作家さんがもっている資格を見たら社労士が並んでいたんです。そんな動機で実は取ろうと思って。いざ資格を取ろうと思ったら避難しているから住所がないからどうしようってなったんです。結果、会津のホテルの住所でも受けられるとなってほっとしました。
あの頃はとても勉強出来る環境ではなくて、93歳のおばあちゃんも一緒に避難所にいる頃は親せきなども含めて15人でいましたし、4月に会津のホテルに移ってからも中々勉強が出来る環境ではなかったです。やっと落ち着いて勉強出来たのは5月くらい、会津の稽古堂に通っていました。
3月に郡山のうすい百貨店に参考書を買いに行ったときのことは忘れられないですね。何も持たずに避難したから参考書なんて持ってるわけもなくて。あの時、郡山の書店はどこもやっていなくて、唯一開いていたのがうすい百貨店。まだ店内にバタバタと本が落ちているころです。
兄貴が原発で働いていて気が気じゃないのもありました。飯を作ってやるよと、朝飯・夕飯作りにいわきに通ってましたし、須賀川に住んだ親のところと、会津を往復する生活をしていました。こういう時だから、歯を食いしばってやらないとと思っていました。

双高(双葉高校)って今、休校しているじゃないですか。同級生達がその同窓会の事務局をしているんです。高校のころはあまり喋ったこともない関係でしたけど、震災で繋がったんです。あまり卒業した高校に思いを持っているタイプの人間ではなかったのですけど、なくなっちゃうと思ったら、変わったというか。明星大学に出来たサテライトには何度通ったか分かりません。双高で年金の授業をやるってなった時は、社労士でしたから「俺にやらせてくれ」ってお願いをして。あの時からFacebookも始めたんです。

震災の翌年に開業した社労士の仕事は、私の天職だと思っています、開業をしたら楽しいなって。悩み相談とか頼られるのが好きで、昔から色んな勉強をしていたんです。その知識が活かせて応えられるのは嬉しいですね。社労士の仕事は、仕事の労務関係全般ですから、手続きも多いんです。全部教えてあげて、手続きしてあげて、アドバイスをする、そうした事が自分には向いているなって。

私は今の自分があるのは震災のおかげだと思っています。そう思うようにしているというか、震災があったから得ているものも多いなと。震災からの1,2年は怒りもありましたよ。でも震災後の人の繋がりのほとんどは震災の前になかったものですし、双高で良かったなと思えることが沢山あります、感謝もしてます。そういうことを考えると、あの日に戻れと言われると私は嫌だと思っています。震災のせいでっていう人生は過ごしたくはありません。せっかく頑張ってきたんですから楽しく過ごしていきたいですね。

2017年10月取材
文:吉川 彰浩

浪江町