松本まつもと 仁枝ひとえ さん | 川内村

松本まつもと 仁枝ひとえ さん | 川内村

京都ラーメン おおきに 店主
出身:川内村

ラーメン屋をやったから皆と出会えたんじゃない、皆と出会うためにラーメン屋をやった

生まれは川内村なんですけど、長く住んでいたのは富岡町なので、富岡も私にとっては故郷なんです。
原町高校を卒業してから1年東京で働き、戻って富岡町の会社に19年勤めました。

38歳で会社を辞めて、母が経営する富岡町の下宿屋「ハッピー荘」を一緒に手伝うことになりました。その1年後、私も知人から下宿屋「富岡荘」を借りて、「喜楽荘(きらくそう)」と新たに名前を変え、原発作業員の宿舎として開業しました。
ありがたいことに、開業と同時に12部屋すべて満室。ただ、2011年1月から始めたので、2ヶ月ちょっとしか営業出来なかったですね。

地震が起きたときは、喜楽荘の客室で掃除機をかけてたんですよ。掃除機の音で緊急地震速報に全く気づかなくて、そのうち揺れが大きくなって、中にいられず表に出ました。地震が収まって、ぐちゃぐちゃになった部屋を片付けようとしていたら、母が血相変えて「津波来るから逃げろ」と言いに来ました。急いで富岡二小にいる8歳の息子を迎えに行って、その日のうちに家族みんなで川内村に避難しました。
次の日に水素爆発が起きて、もう川内にもいられないってことで、会津、栃木と、原発から離れるように避難しました。うちは小さい子がいたので、近くを転々とするより、遠い場所に行った方がいいだろうと思い、思い切って関西の方に避難することに決めました。

一番最初に福島の避難者の受け入れで手を上げてくれたのが、京都と滋賀だったんです。それで関西広域連合に連絡したら「すぐ来てくだい」と言ってくれたので、親兄弟合わせて総勢12~13人で、京都に移動しました。たまたま市営住宅が空いていて、そこにそれぞれの家族が入れました。

このラーメンの味を、福島に持って帰りたい

人生180度変わっちゃって、これからどうやって生きていこうかなと考えていた時に、『ラーメン屋さんやってみたいな』っていう気持ちがどこかにあったんです。まわりには知ってる人もいないし、思い切って好きなことやろう!と思い、雇ってくれるところを探し始めました。

そんな時に偶然入ったラーメン屋で『この味を福島に持って帰りたい』と思えるラーメンに出会いました。そのラーメン屋は石巻に炊き出しに行って、被災した様子を知ってくれていたので「大変だね、すぐ入っていいよ」と言ってくれて、働けることになりました。

そのお店は、私が入ってから半年後にお店をたたむことになり、社員の一人でもある石田忠夫さんが独立し「神来(じんらい)」というお店を新たに立ち上げました。私が”師匠”と呼んでいる人のお店です。早速面接を受けたんですが、その時は採用にはならなかったんです。
ラーメン屋にも役立つと思って始めた職業訓練校でのパソコン教室を卒業して2ヶ月後、一度は不採用になった神来から「やる気ありますか?」って連絡があったんです。それから2年半ほど働くことになります。

修行は男扱い。でも、それが逆に嬉しかった

働いている時に、ラーメン屋をやりたいって意思は伝えてはいたんですけど、任されるのはホールやオーダーばかり。「やりたいのはホールやオーダーじゃないんだ、中も覚えたいんだ」「いつやらしてくれるんですか?」って、かなりしつこく言ってました。そして、たまたま一人の社員さんが辞めたタイミングで、やっと焼き飯を任せてもらえるようになりました。

最初の半年は腕が動かなくなるまで、焼き飯を作る毎日でした。1年くらい焼き場をやらせてもらえて、そのうち「スープやらしてください」なんて、生意気なこと言ってました。それでも社長にやらしてくれ、とはなかなか言い出せなくて、辞めようかとも思ったくらい葛藤してました。

でもいざ社長に聞いてみたら「やりー(やってみな)」と言ってくれて。それから本格的にラーメン作りの修行が始まりました。
修行は男扱い。でもそれが逆に嬉しくて、被災者っていう扱いをされなかったのが、すごく楽だったんです。

「福島に帰ってお店出したい」と、師匠と社長に伝えたら、師匠は「まっちゃんなら大丈夫だろう」って。社長にも「ラーメンも味もメニューも、そのままのものを使っていいよ」と言ってもらえて、背中を押してもらいました。
福島の知り合いの助けもあって、2015年12月にいわき駅前で、京都ラーメン「おおきに」を無事開店することができました。

この間、師匠が京都から来てくださって、ラーメンを食べてもらった時はすごく緊張しましたけど「何も言うことはないやろ」って言ってくれて、嬉しかったですね。

その時その時で支えてくれる人がいなければ、今の自分はいない

息子は当時、京都の小学校に転校して、最初はいじめられたり色々あったみたいだけど、自分なりに頑張ったんでしょうね、そのうち学校にも馴染んだみたいです。むしろ京都で馴染みすぎて、福島に帰ってくるときに大変でした。中学1年の6月の終わりに帰ってきたので、中学に上がって2ヶ月でしたから。
それでも段々こっちでの生活にも慣れてきてくれて、今は高校生になります。

子どもの人生も、私のやりたいことを優先してきたので、どういう風に責任取ったらいいのかなって、ずっと悩んでたんですね。家のことと仕事のこと、全部被っちゃってたので、振り返ると何をしてきたのか覚えてないくらい。
夜遅くまで働く自分に代わって、息子にご飯を作ってくれるママ友だったり、その時その時で支えてくれる人がいなければ、今の自分はいないなって思います。

振り返ってみると、私はラーメン屋をやったから皆と出会えたんじゃなくて、皆と出会うためにラーメン屋やったのかなって思いますね。

2018年5月取材
文/写真:渡辺可奈子

浪江町