大橋おおはし 庸一よういち さん | 双葉町

大橋おおはし 庸一よういち さん | 双葉町

いわき・まごころ双葉会 事務局長

生まれ育った双葉町の行く末を今後も見守っていきたい

私は現在、「いわき・まごころ双葉会」の事務局長を務めています。
主な活動内容としては、現在いわき市に住んでいる高齢の双葉町民を対象に、年2回の日帰りバスツアーや、年末に実施している例会での催し物などを企画し、町民が集まる機会を作っています。
現在の会員数は132世帯におよび、多い時で90名前後の方がツアーに参加します。

震災当時、私は双葉町細谷地区の行政区長を勤めていました。地震が発生したときは自宅に居り、地震発生後から管内を回って人的被害が無かったかの確認作業にあたっていました。細谷地区は福島第一原子力発電所から3㎞圏内だったため、当日18時には避難指示が出され、息子夫婦から預かっていた孫、一緒に暮らしていた母、家内の4人で町内の山田公民館にて一晩明かしました。翌日早朝には10㎞圏内の避難指示が出されたため、私たちは川俣町まで避難することとなりました。
息子たちは共稼ぎだったため職場から離れられず、孫が両親と再会できたのは震災発生から4日後のことです。
その後川俣町から栃木県那須塩原市の民宿に避難したのですが、このときは心からほっとした記憶があります。先のことなど考えられなかった状況ではありましたが、暖かく迎え入れていただけたことに、とても安堵しました。
事故後6か所目となったいわき市に居を構えたのが平成24年1月。いわき市を選んだきっかけは、いわき市に拠点を置くことを決めた息子夫婦から、孫の面倒を見てほしいとお願いされたことからでした。
いわき市内には現在、多くの双葉町民が生活しています。震災当時、双葉町の人口は約7千人。震災後双葉町の役場機能が埼玉県に移ったことから多くの町民が避難したと思われがちですが、実際避難された方は約2千人ほどです。それ以外の町民は情報が不足する中、自力で県内外へ避難された方が多く、双葉郡8町村の中で一番多くの住民が全国各地に散らばることとなりました。

「いわき・まごころ双葉会」の発足といわき市での生活

「いわき・まごころ双葉会」を立ち上げたきっかけは、町民が固まって生活をする仮設住宅と比べ、自主避難された住民の孤立が顕著になっており、町民同志を繋ぐお手伝いが出来ないかと考えたことからでした。自分たちで現状を何とかしたいと思い、仲間4人と話し合い、発会にこぎつけました。
会を立ち上げると町民が集まってくれるようになり、今も楽しく活動が続けられています。前述した通り、年2回のバスツアーはもちろん、毎年12月に開催している例会では笑いヨガ教室やコンサートなどの企画を催し、町民同志の交流を深めています。
ほかにもいわき市民との交流を深めるため、毎年8月に実施されている“いわき七夕まつり”に合わせ七夕飾りを作り、平和通り商店会に飾ったり、模擬店を出したりしています。

しかし、高齢者の集まりでもある同会は、課題が山積しているのも現状です。双葉町は小さな町だったため、車で10分も走ればほかの町へ移動できました。そのため、面積が広い、いわき市ではしょっちゅう集まれないこと、ほとんどの方が車を運転できないことなどから、年々参加者は減少しています。また、長い避難生活の中でそれぞれに生活を再建された方も増えたため、自分たちの年代の集まりはこれで最後になると考えているので、今も出口を探している段階です。

いわき市での生活を始めてから丸8年となりました。これまでの期間、本当にたくさんの出会いがあり、つながりができたなと実感しています。
震災の二年前から、(双葉町)細谷地区の人たちと彼岸花を植え始めていたんですね。それが避難してから沢山咲くようになったのですが、同地区は中間貯蔵施設に指定されたため、今後誰も住むことができません。そのため、震災後お世話になった川俣町の山木屋地区に“みんなが戻ってこれるように”との思いをこめ、彼岸花を移植することになったのですが、私が参加している、福島原発事故による長期影響地域ための対話集会「ダイアログセミナー」のメンバーや環境省の方が双葉町民と協力し、彼岸花の掘り起こし及び植え付け作業を手伝ってくれました。
このとき移植され、増えた分の彼岸花は、いずれ双葉町に完成予定の「アーカイブ拠点施設」に里帰りさせようという話しも進んでいるので、とても楽しみです。

このほかにも、平成30年11月には、細谷行政区の皆さんと一緒に、同地区のケヤキの木に黄色いハンカチを40枚ほどつるす活動を行いました。これは映画『幸福の黄色いハンカチ』からヒントを得て実現したのですが、これも望郷への思いが込められています。

また、「何か趣味を作りたい」という思いから、いわき市中央台鹿島の高齢者でつくる「鹿島のぞみの会」のターゲットバードゴルフクラブに参加しており、3月に開催された大会では2位に入賞できたことはちょっとした自慢です(笑)今も週に2度ほど練習に参加しています。ほかにも、NHKの教養講座で5~6年前からオカリナのレッスンを受講しており、コンサートや発表会で演奏を披露したりもしています。

私は66歳まで商社勤めをしてきたことから、人とのつながりをとても大切にしてきたつもりです。それが震災後、様々な出会いを経験し、より深まった気がします。
もともと退職後は余生を楽しもうと考えていたため、隣県はもちろん、興味のあった沖縄県南大東島などにも足を運び、行く先々で様々な人達と交流を深めてきました。お世話になった方たちへは帰宅後、感謝の気持ちを込めて手紙を書くようにしています。
人は一人では生きていけないですよね。みんなとつながりを持つことで、初めて心の空白が埋めていけるのではないかと感じています。

双葉町細谷地区は震災の時点で45世帯、160人くらいの住民が生活しており、3世代、4世代同居も珍しくはなく、子どもが多いエリアでもあったため、とても賑やかな地区でした。何もない場所ではありましたが、地域のつながりを大切にしてきた場所だったのです。
残念ながら中間貯蔵施設に指定されたため、生まれ育った自宅に帰還することはできません。
しかし、福島第一原子力発電所の周辺に中間貯蔵施設を作ることは合理的なことだとも理解しています。寂しさはもちろんありますが、他地域に施設を作るといっても話がまとまらないだろうし、仕方のないことだと思っています。
故郷はなくなってしまっても復興には関心がありますし、今後も携わっていきたいと思っています。双葉町の行く末を自分の目で確かめたいですし、移植予定の彼岸花も眺めたい。だから、これからも双葉町でやりたいことがいっぱいあるんですよね。 
双葉町駅西には今後、コンパクトタウンの中に公営住宅ができる予定なので、そこにも住居を確保して二重居住を実現し、いわき市と忘れ得ぬ故郷双葉町を行ったり来たりしていきたいなと考えています。

2019年4月取材
写真・文:S/T

浪江町