根本ねもと 清己きよみ さん | 浪江町

根本ねもと 清己きよみ さん | 浪江町

大堀相馬焼 職人

浪江の伝統工芸、大堀相馬焼の里に生まれて

清山窯(せいざんがま)という窯元の長男として生まれました。小さい頃からろくろを触って育ち、見よう見まねで馬の一筆描きを始めたのが小学6年くらいかな。双葉高校を出た後は、他の焼き物の産地へ修業に行くこともなく、そのまま家業に入ったんです。他の選択肢というのは考えたこともなかったなあ。

父や職人さんから作り(成型)、絵付け、焼成まで一通りの工程を学びましたが、私が3代目を継いでからは、試行錯誤の末、34歳のときに窯の火は止めました。昔、私のところは問屋から注文を受けて納めるのが基本だったのが、時代とともに問屋制が崩壊。自分たちで小売りを始めたんです。私も20代後半のころ各地の催事で販売を試したりしたけど、結果はあまり芳しくなかった。それで、自分は窯元ではなく職人に徹することにして、他の窯元からの仕事を請けるようになりました。

▲ろくろを回す根本さん。2018年に浪江町内で復活した大せとまつりにて▲

南相馬に自宅と作業場を再建するまで

2011年3月11日は、下の娘の中学卒業式でした。式が終わって家へ戻り昼を食べた後、大地震が来た。幸い家族はみな無事だったけど、揺れで母屋の屋根のぐし(棟)が落ちてしまい、危ないのでその晩は車の中で過ごしました。

翌朝から町の避難が始まると、まず私たちのいる大堀地区のやすらぎ荘という公共施設が避難場所になりました。それで私は、自家発電機を持っていく人を手伝ったり、炊き出しをするので家にあったコメを持って行ったりしたんだけれども、まもなく原発が爆発する音を聞いたんです。近くでガス爆発でも起こったのかと思ったね。煙を見たという人もいました。

その日の夕方にはさらに遠くへということで、最初私たちは(南相馬の)原町へ向かったんです。でも、どの道も渋滞で動かないので諦め、(多くの町民が避難していた)津島へ行きました。夜、津島高校に着いたらもう人がいっぱいで、家族がまとまって座れる場所もなかった。数日後にはそこも危ないとなって、町は二本松方面に避難するというんだけど、「方面」じゃわからない、どこへ行くんだ?と職員に詰問したのを覚えてますよ。結局私たちは知人を頼って伊達市保原へ向かい、そこで数日お世話になりました。

そこから、姉のいる茨城県美浦村を経て4月には福島市に戻り、さらに二本松市へ移動しました。中通りに戻ったのは娘たちの学校のため。下の娘は4月から(南相馬市の)小高商業高校に進学予定で、その小高商業は福島市にサテライト校を、上の娘が通っていた津島高校は二本松市にサテライト校を設けたので、福島と二本松の間で家を探す必要があったんです。

その後、小高商業のサテライトの再移転とともに下の娘は南相馬へ。卒業・就職するタイミングで妻も南相馬へ引っ越し、私は二本松に残りました。その後、南相馬市原町に今の自宅を建てて、やっとまた家族で落ち着いて暮らせるようになったのは2016年2月です。避難で置き去りにせざるを得なかった飼い犬の北斗も、一時は行方がわからなくなっていましたが、東京の里親さんにもらわれていることがわかり、引き取ることができました。

もちろん大堀には帰りたいけれど

大堀相馬焼協同組合が2012年夏に二本松市内で共同窯を開窯し、いくつかの窯元が県内各地で作陶を再開するに従い、私も再び仕事の依頼を受けるようになりました。南相馬に建てた家には作業場も設置し、おかげさまで忙しくしています。ただ、以前はみんな大堀地区内に集まっていたのがバラバラになって、どの窯元へ行くにも往復100キロ以上。それがちょっと大変だね。

産地を離れて年月が経ち、窯元たちも新天地での再建が進んでいます。(まだ帰還困難区域の)大堀がたとえ除染して戻れるようになったとしても、みんなでまた大堀に帰るというのは考えられないでしょう。そりゃもちろん、誰だって故郷に帰って暮らしたいよ。でも現実的には難しい。

大堀相馬焼は江戸時代からの伝統というけれど、例えば、現在描かれている金彩の駒絵も、実は初期の頃にはなかったとも聞いています。これからもそうやって時代と状況にあわせて少しずつ変わっていけばいいんじゃないかな。ただ、以前の大堀には、今の私などとても及ばない素晴らしい職人さんたちがいました。彼らがこれまで伝承してきた「技」が途絶えてしまうのは、もったいないと思うね。例えば(大堀相馬焼の特徴である)二重焼きというのは一見難しそうに見えるけど、一重焼きを完璧に修得すれば特に難しくないの。でも、そう言えるだけの技を持った職人がいなくなってしまったら悲しいことだね。

そんな中で今、浪江の地域おこし協力隊員として3人の若者が職人を目指して修業をしています。私もときどき教える機会がありますが、もっともっと貪欲に学んでほしいな。他の伝統工芸と同様、職人として食べていくのは決して簡単ではないけれど、ぜひ次世代に技術を伝えてほしいと思います。

2019年2月取材
文 ・写真=中川雅美