吉田よしだ 健つよし さん | 葛尾村

吉田よしだ つよし さん | 葛尾村

株式会社 牛屋 代表取締役

帰れると信じていた葛尾で、ゼロから再スタート

生まれは田村市船引です。両親はもともと葛尾村と田村市常葉で畜産業を営んでおり、私が17歳のとき一家で葛尾村へ転居。以来、私もずっと牧場の経営に関わってきました。東日本大震災前は葛尾に牛400頭、常葉には800頭と、かなり大規模だったんですよ。

2011年3月11日に大震災と原発事故がおきて、3日後の14日には葛尾全村にも避難指示が出ました。でも、私たちは牛の世話があるから逃げるわけにいかないでしょう。葛尾にいた400頭については、急いで出荷できる牛は出荷し、その他は常葉のほうに移動させて、自分たちが村を出たのは6月頃だったと思います。

当時、村にいた家畜は、一定の期日までに売却・移動できなければ殺処分ということになってしまいました。でも、葛尾にいた多くの畜産農家さんの中には、私たちのように牛を避難させられる場所がない人も多かった。なんとか預かってほしいという願いを受け、26軒から180頭を受け入れましたが、それでも行き場のない牛をすべて助けられたわけではありません。

私は、田村市船引に避難した後も、父が経営する常葉の牧場で仕事を続けていました。でも、元々葛尾のこのあたり(野川地区)の放射線量は比較的低く、必ず戻れる日が来ると確信していたんです。それで、村の避難指示が2016年6月に解除されると、父の牧場を離れて自分の会社「株式会社牛屋」を設立。獣医師の妻と二人、葛尾でまたゼロから畜産をスタートすることにしました。土地探しから始め、畜舎を建て、最初の牛が来たのが2018年夏のことです。

高付加価値の「葛尾産羊肉」を村のブランド品に

同時に、初めてヒツジの肥育も始めました。もともと、牛舎を使って別の動物を育てられないかと考えてはいたのですが、直接のきっかけは、県内のとあるジンギスカン店で食べた北海道産の羊肉に衝撃をうけたこと。それまで知っていた輸入ラム肉とは全く違い、柔らかくて臭みもなく、ものすごく美味しかった。すぐに北海道に行き、ヒツジを購入しました。そのヒツジたちを牛の肥育技術を応用した独自の方法で育てることで、付加価値を高めています。まだ開始から1年ですが、ヒツジは肥育期間が短いので既に出荷しています。

国産羊肉は流通市場が未整備ということもあり、全流通量の1%ほどしかありません。もともと希少なうえに付加価値があるので、取引価格は高級和牛の2~3倍。これなら「ちゃんと儲かる畜産業」になります。一方、牛は肥育にかかる期間・労力と比べて利益が極端に薄い。これは牛に限らず日本農業全体が抱える問題ですね。だから農業離れが進むんです。でも、私たちの羊肉のような高品質のものを生産できれば、若い世代にとっても魅力となるでしょう。

ずっと畜産に携わるなかで、前例主義を排し、常に新しい考えで新しいことをやろうとしてきました。ヒツジもその挑戦のひとつです。ただ、ヒツジはいまだに放牧が許されず(牧草からの放射性物質取り込みの可能性のため)、頭数を増やすのが難しいのが現状です。そういったハンデはありますが、これからもチャレンジし続けて、いずれ「葛尾産羊肉」を村のブランド商品にしていきたい。そしてもっと規模を拡大し、インターンや研修生などの形で外から多くの若者を呼び込むことで、お世話になった葛尾村を元気にしたいと思います。

生き物相手の仕事は大変です。盆も正月もありません。大雪や台風のときなんて本当にシンドイですよ。でもいちばん大変だったのは、やはり大震災の後です。常葉の牧場では、地震で水道管がズレて水が出ず、牛が水を飲めなくなっちゃったんです。渇いた牛たちが狂ったように鳴いてね。群馬まで行って散水車を借り、川の水をひいて給水して1週間ほどしのいだ、ということもありました。

そんなに大変なら、辞めてサラリーマンになろうと思ったことはあるかって?ない、ない(笑)。朝、畜舎に行ってエサをやる。動物たちはみんな待ってるんです。その顔を見るとね。この仕事、最高ですよ。

2019年8月取材
文/写真=中川雅美

浪江町