半谷はんがい 隆信りゅうしん さん | 大熊町

半谷はんがい 隆信りゅうしん さん | 大熊町

遍照寺 住職

失敗してもなんでも、とにかく動いてみる。坊さんもがんばってるからって元気づけられるように。

私自身は大熊町生まれではないのですが、母が大熊町の寺の出身で、その縁で子供の頃の3年間を、大熊町で過ごしました。
昭和50年頃、私のいとこに当たる寺の娘が長野に嫁ぐことになり、寺の後継者として私に白羽の矢が立ちました。当時、埼玉で公務員として勤めていたので、最初はためらっていたんですが、最終的に坊さんの大学に入り直し、30歳になる昭和55年頃、大熊町の「遍照寺」に帰ってきました。先の住職が震災の2年前に亡くなり、住職としての務めをしたのは2年ほどでしたが、30年間を遍照寺で過ごしました。

地震発生から長野に避難するまで

震災に遭ったのは自宅にいた時で、とにかくひどい揺れでした。周りを見たらもうすごい…、大谷石の塀が全部崩れ、本堂の御本尊も倒れてしまっていました。

家にいるのは危ないので車の中で待機していたら、海の方から「津波だ」って声が聞こえたんですよ。坂の上に小学校があるので、そこに避難しようとしたら、消防の人にもっと先に行けと促され、スポーツセンターに向かいました。お寺は幸い、無事に残ってくれました。
その日の21時頃、「第一原発の3km圏内は屋内退避」という連絡がありました。避難場所を探すため、大熊町内の小学校や施設へまわったものの、どこも入れず、大川原地区の親戚の家に一時避難させてもらうことになりました。もちろん余震が強いから、車の中で。私はあの時「3km圏内屋内退避」ときいて、放射能が漏れてるなと思いました。今までそんなことなかったから。だからひょっとしたら帰れないかな、という気はしていたんです。

翌日役場に行ったら、バスが停まっていました。私が見たのは5、6台だったんですが、もっとあったと思うんです。近くにいる人に聞くと、どうやら西の方に行かなくちゃいけない、待ってるバスに乗らなきゃいけないと言う。うちには障がい者がいたので、バスには乗らず、車で行くことにしました。
国道288号線を押し流されるように、田村市総合体育館に誘導されました。そこに一旦は落ち着いたんですけれど、家族の体のことも考えると、ここに居続けられるだろうか考えていたところ、原発の1号機が爆発しました。その夜に警戒区域が10kmから20kmに変わり、これからもっと拡大する可能性も考えて、いとこのいる長野まで行こうと決断しました。

避難先の会津に、檀家さんのためのお寺を

長野に着いて1~2日経ち、テレビやネットで安否確認をしていく中で、だんだん被害の状況が分かってきました。津波で犠牲になった人が、たくさんいることが分かりました。犠牲者のお骨は、二本松のお寺さんでまとめて預かってくれるところがあったらしいんです。でもそこがいっぱいになると、他を探さなくてはいけなくなる。そうするとやっぱり、檀家さんのためのお寺が必要だなと思ったんです。震災から約2週間後ぐらいだと思います、大熊町が会津若松市に役場機能を移し、町民の大半がそっちに避難するということを聞いて、会津に行くことに決めました。
幸い、会津若松市内の知り合いのお寺さんに声をかけていただいて、アパートとお寺をお借りすることができました。

会津に住み始めてから、若松女子高校跡地にできた大熊町役場出張所へ、支援物資を受け取りに時々行っていたんです。そこで、お墓や仏壇の相談を受けることが多くなりました。あるお年寄りが「お寺さんがいてよかった」って、すごい安心した顔で言うんです。ああ、これはこのままにしてはおけない、やるっきゃないな、そう新たに思いました。
そこから「遍照寺が会津若松市にあるよ」というのが知れ渡り、お骨を預ける方がたくさんきて、多い時で90体のお骨を預かりました。あの頃はとにかく「やんなきゃならない」という思いだけで、会津の暑さ寒さも感じませんでしたね。膝を悪くした時も、杖をついて歩いていた位なのに、自分では痛さを感じなくて、なんで歩けないのかなって不思議に思うくらい。それくらい無我夢中だったんでしょうね。4~5年経ってからですね、暑さ寒さを感じられるようになったのは。

広野に「遍照寺 別院」としてお寺を建てる

そんな中、大熊町の動向も気にしていました。仮の町ができるのか、会津に居続けるのか。もし町が動くなら、町の近くについていこうかなと思っていたんです。けれども何も動きがないので、「自分でやるしかないな」と思っていました。
平成23年7月頃から大熊町への一時立ち入りが始まって、町民の立ち入りの目的が、最初は貴重品を取りに行く、というところから、だんだんお墓参りが主になってきました。
お墓参りに行くんだったら、大熊町から近いところがいいなと思ったんですよね。当時は楢葉町がまだ帰還困難区域で、広野町が自主避難をしていました。いわき市に移ってきている人も多かったから、いわき市からもアクセスが良くて、大熊町からも近い場所とすると、その時点では広野町しかありませんでした。平成24年の初め頃には、広野町で場所を探しはじめました。そうして平成27年末、「遍照寺 別院」として広野町に仮の本堂を建てることができました。

大熊町は、帰還できるメドが立たない。そんな不安な中にいた時に、失敗してもなんでも、とにかく動いて前向きに物事を考えて、自分のことは自分で道を拓いていく。そうやって私がなにか前向きなことをやることで「坊さんもやってるんだからがんばっぺ」って、そう思ってもらえるように。そういう気概もあったんですよね。

こういう事態になった時にすべきことを、後世に伝えるべき

大熊町には頻繁に一時立ち入りしています。中間貯蔵施設で建物を建てるところは、お墓も移転しなくてはいけないんですよ。その交渉だったり、お墓の前でお務めしたり、納骨したりというのがありますから、月に少なくとも5~6回は入ってます。
でも寺の様子を見に行くとひどい有様で、アライグマやイノシシに荒らされ、めちゃくちゃになっているので、行くたびがっかりします。
まわりはどんどん綺麗に更地にされていますが、すべてを取り壊してしまったら、原発事故ってなんだったのかなって、目で見る機会がなくなってしまう。だからできれば本堂は朽ちるまで置いておきたいなと考えています。

我々は、こういう世界的にも稀有な事態が起こった時に、まず何をすべきか、これから先をどのように考えるのか、行動を起こすにはどんな手続きが必要かを、後世に伝えていく義務というか、責任があるんじゃないかと思っているんですよね。今回、原発事故で避難しなさいと言われて避難して、全部自分たちでやらなくちゃいけなかったんです。もちろん行政としてやってくれることもありましたけど。後世の人のためにも、想定外の災害が起こった時の対処の方法を、何かの機会にまとめておこうと考えています。

事故前のような近い関係を、同じ気持ちで暮らせる場所を

避難先で一人暮らしをしている人で、イベントとか会合に参加して外に出ていく人はいいんですけれど、そういうのが苦手で家に閉じこもっている人も結構多いんです。大熊町にいれば、外に行かなくても庭いじりをしたり畑仕事をしたりと、そういう生活ができたでしょう。それが避難先では何もしなくて、ただ閉じこもっている人が結構多かったんです。でも私みたいな坊さんが行ってお話をきくと、次から次から話したいことが出てくるんですよね。地震があった時にどこにいて、というところから、今のことまで。そうすると本当にホッとして、笑顔になることが多かったんですね。私がふれ合った人は、そういう風に出来たんですけれど、そういうことを必要としている人が、もっといたと思うんです。だからあの頃は、用事がなくても外に出て歩こうと、よく言っていました。

でも今まで住んでいたところの、当たり前の日常が突然寸断されて、違うところに住むことになったでしょう。普通は、引越しをするなら引越しの用意をして、自分で希望して納得して行くわけです。それを準備のないままに離れることになるっていうことを、何回か繰り返していて、すごく過酷なことじゃないかと思うんですよね。
だから私は今でも仮の町とか、新しいコミュニティを作ることは必要だと思います。もともといたような近い関係を、隣近所が心かよわせて暮らせる場所を、場所が違っても作っていければ一番いいのかなと思います。

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遍照寺 別院
〒979-0404
福島県双葉郡広野町折木北沢215-3

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2018年6月取材
文 ・写真=渡辺可奈子