瀧たき 真琴まこと さん | 浪江町

たき 真琴まこと さん | 浪江町

有限会社新瀧 専務取締役
出身:浪江町

着の身着のままで避難

震災前は浪江町内で、寿司、弁当、居酒屋、ファミリーレストランなど、多業態の飲食店を展開、作業員用の下宿も経営していました。父が飲食の事業を始めてから50年、会社(有限会社新瀧)を作ってからは40年の歴史があり、従業員も40名ほど抱えるまでになっていました。

震災の当日、私はそのうちの1店舗にいました。かなり揺れましたが、たまたまお客さんがいなかったのが幸いで。従業員とともに外に出たら、町中の方で白い煙が上がってるのを見た記憶があります。たぶん建物が倒壊するときの土煙だったんでしょう。うちの店は、建物自体は大丈夫でしたが中はめちゃくちゃ。火やガスを確認した後すぐに従業員を家に帰して、私も3人の子どもたちを迎えに行き、まずは嫁さんの実家がある酒田に家族で集まったんです。

翌朝早く、「避難しろ」という防災無線を聞いて、私たちは(田村市)都路へ向かいました。たまたま、嫁の母と私の母の実家が両方とも都路だったからです。といっても私の車にはガソリンがほとんどなくて、どこかで入れなきゃなりません。南相馬にいる妹夫婦に聞いたらガソリンスタンドが営業してるらしい、ということで、南相馬経由で(かなり大回りして)行きました。

ところが、すぐに都路にも避難指示が出た。私たちは親戚の伝手を頼って、大玉村の知人宅で一夜を過ごしたあと、大玉村役場が用意してくれた避難者向けのコテージに入りました。当時、郡山などの避難所には既に数百人単位で避難者がいましたが、大玉村にはまだ20人くらいだったと思います。子供も小さいし大きな避難所は無理だと思ったので、大玉村で場所を用意してもらえて助かりました。そこまで私たちは本当に着の身着のままで、車に入っていた毛布1枚を持ち歩いていたような状態でした。

結局そのコテージでは半年くらい生活したのですが、その間何もしないわけにはいけない。そこで相馬市の沿岸で津波ガレキなどを撤去する仕事を始めました。(中通り中部の)大玉から(浜通り北部の)相馬まで片道2時間。朝5時半ごろ出て19時半くらいに帰ってくる毎日でした。

どうせダメになるなら、浪江で

その後、郡山の借上げ住宅に移り、しばらくして家も購入しました。が、浪江に持っている多くの店舗をどうしようかとはずっと考えていました。個人経営の店1軒なら、別の場所ですぐ再開も考えられたでしょうが、会社として借金もありましたし、土地も建物も残っています。他所で始めたとして、浪江が解除になったらここはどうするんだと。悩んだ時期は長かったですね。避難指示解除の時期がなかなか見えず、浪江を諦めることも考えました。

そんな中、南相馬で50年近く前に父が始めた「サッポロラーメンたき」を引き継がないか、という話が出てきたのです。そのときの店は父の姉が経営していたんですが、入居していた古い建物がとうとう取り壊されることになり、伯母も高齢なので、このタイミングで私にお店を任せられないか、と。そこで、南相馬市内の別の場所に移転することを考え始めた矢先、浪江町の一部避難指示解除が決まったんです。そこで、浪江に戻って「サッポロラーメンたき」をやることを決心しました。

浪江での再開に、もちろんリスクはありました。まず人口が少ない。昼は作業員の人たちがいるといっても実際どれだけいるか分からない。本当に採算がとれるのか?賭けの部分はありましたね。でも、どうせダメになるなら、他所でなく浪江でやってダメになったほうがいい。最後はそう思って腹をくくりました。

食を通して復興の手助けを

2018年2月26日、浪江町高瀬にオープンした「サッポロラーメンたき」は、おかげさまで今のところ計画通り順調にいっています。現在はランチ営業のみですが、最近は夜の宴会の予約も頻繁に頂くようになってきました。わざわざ南相馬から食べに来てくださる昔からの常連さんも多いんですよ。有難いことです。

もちろん、元の環境とは全く違って難しいところはたくさんあります。周りに店がないから、例えばネギがない!となっても買いに走ることができません。従業員の時給の相場も上がっていますしね。でも考えていてもしょうがない。やるだけやってダメなら仕方ないんですから。

今後はお客さんのニーズをきちんととらえて、それにあったスタイルで少しずつ展開していこうと考えています。ラーメンだけでは物足りないというお客さんが多くなれば、定食をやるとかですね。夜間人口が増えれば、夜も恒常的に営業できるようになるかもしれません。

浪江にはいろんな仲間がいて、みんなそれぞれの分野でがんばっている。彼らと話すと元気が出るんです。そういう仲間たち、そして町の人たちに必要とされる店になりたい。そして、食を通して復興の手助けができればいいなと思っています。

子供の幸せがいちばん

私はいま、店が営業している平日は浪江町内の両親の家に寝泊まりしていますが、妻は子供たちと一緒に郡山の家に暮らし、毎日店に通っています。店の再開と同時に家族で浪江に引っ越さなかったのは、子供たちをこれ以上、移動させて友達と引き離したくないからです。

震災当時、子供は2歳と幼稚園と小学生でした。あのときは、原発事故と言われてケタ違いの危険しか想像できなかった。あれが爆発したら、原爆が落ちたようになるんじゃないかとね。子供たちも幼いなりに、大人たちのただ事ではないという雰囲気を感じ取っていたと思います。その後しばらくは、テレビで3.11のことをやっても見せないようにしていました。当時の映像を見ると敏感に反応してしまうからです。

そんな子供たちも、もう一番上は高校生、一番下も小学5年になりました。常に友達と楽しく遊んでいますよ。だから、ちょっとの間親が苦労して頑張ればいい。子供の幸せがいちばん大切ですからね。

2018年6月取材
文・写真:中川雅美