谷川攻一さん福島県ふたば医療センターセンター長・同附属病院院長

谷川攻一さん
福島県ふたば医療センターセンター長・同附属病院院長

略歴/福岡県北九州市出身―1982年九州大学医学部卒業,同年産業医科大学にて初期臨床研修,1992年米国ピッツバーグ大学病院クリニカルフェロー,1998年福岡大学病院救命救急センター講師,2002年広島大学救急医学教授,広島大学病院高度救命救急センター長,広島大学緊急被ばく医療推進センター副センター長

2011年3月福島第一原子力発電所事故発生直後より緊急被ばく医療支援チームとして福島県にて活動、2015年福島県立医科大学副学長(業務担当),2016年福島県立医科大学副理事長(復興担当),ふくしま国際医療科学センター長,ふたば救急総合医療支援センターセンター長,2018年福島県ふたば医療センターセンター長(非常勤),2019年4月福島県ふたば医療センター附属病院院長就任。この間2011年から現在まで東京電力福島第一原子力発電所医療体制ネットワーク連絡会議議長。

「広島から福島へ」

僕は九州大学を卒業後しばらくは産業医科大学や福岡大学で勤務し、2002年に救急医学の教授として広島大学に赴任しました。広島大学は2004年に国の定める三次被ばく医療機関(*1)の指定を受けました。1999年のJCO臨界事故を(*2)契機に日本の被ばく医療体制が整備され、三次被ばく医療機関として東日本は放射線医学総合研究所(放医研*3)が、西日本は広島大学が担当することになりました。そこで、僕は広島大学緊急被ばく医療推進センター副センター長として西日本の原子力発電所が立地する県を中心に、被ばく医療体制の整備に関わることになりました。

震災当日は広島県呉市で被ばく医療の講習会を行っていました。その当時はDMAT(*4)という災害派遣医療チームの統括も担当しており、震災発生直後に厚労省から一斉メールが入りました。東北で大規模な地震、津波が発生したので、出動に備えて待機するようにという内容でした。そこで一旦講習は切り上げて広島市に戻り、DMATの派遣調整をしました。その夜、DMATの初陣チームを送り出し、その後は院内の業務調整とDMATの第二班、第三班の派遣調整を行う予定でした。このため、当初は広島大学に残った方が良いと考えていました。しかし、福島第一原子力発電所の原子炉の状態が芳しくないという事で、翌日の3月12日朝に国から医療支援チームとして出動依頼があり、早々に広島を発ちました。

3月12日午後に放医研(千葉)に合流しましたが、その日はヘリコプターがみつからず、翌日の13日午後に自衛隊ヘリが確保でき、福島市(福島県自治会館/県災害対策本部)に向かうことができました。

「混乱する現場」

福島県の対策本部に着いた時は、現場が混乱していて指示系統が明確でなく、国も状況をつかめていないようでした。そのため、自分たちで判断して必要なことをやるという事しか考えられませんでした。13日の深夜、20km圏内の病院に避難できない人が残っている、早急に避難の際のスクリーニング(放射線検査)の支援を行うようにとの指示が国からありました。そこで、14日未明に南相馬の相双保健所に向かいました。相双保健所に着くと、施設の高齢者や入院患者さんたちが次から次へとバスで運び込まれてきました。避難者へのスクリーニングやバスでの移動中に怪我をした患者さんの処置などの対応に追われました。寝たきりだったり、その時点で既に治療が必要な高齢者が無理にバスに乗せられていたような状況で、とても悲惨な状態でした。(相双保健所からスクリーニングを終えて出発したバスの多くは搬送先が中々決まらず、バスの中や医療設備のない避難所で多くの犠牲者を出した)

医療施設の避難については色々な議論がありますが、原子炉の状態を国も正確に掴んでおらず、先が見通せず非常に不確実な状況だったので、その当時は避難するしかなかったのだと思います。放射線の防護の方法もない、線量も測定できない。ただやはり、避難に伴って医療や介護が必要な人がいて、そうした方々がまったくケアされていませんでした。そのため、結果的に亡くなった方がいたということは深く反省すべきです。

(谷川先生たちの医療チームは、14日の午前11時に三号機が爆発した直後に負傷した作業員と自衛隊員の救護のためにオフサイトセンターに向かった。しかし、地震による損壊など途中の道路状況が悪く、また、線量が上昇してきたため双葉町に到着した時点で断念、現地にたどり着くことができなかった。3月16日には14日の爆発で負傷していた作業員の救出のため、自衛隊のヘリで県立医大から福島第二原子力発電所(負傷者は第一原子力発電所から搬送されていた)まで救助に行った。)

「福島の経験を国際的にどう共有していくのか」

当時の状況が一段落したと思われるのは3月の終わりくらいでしょうか。消防のハイパーレスキュー隊がその時期に一旦解散になりましたから。原子炉にしても使用済み燃料棒にしても、どうにかコントロールがついた、そのあたりのような気がします。その後、福島第一原子力発電所の中にある救急医療室の立ち上げにかかわって、しばしば救急医療室での診療のため、福島第一原子力発電所に来ていました。

今回の事故は自然災害に甚大な原発事故が複合するという初めてのケースでした。僕は当時、福島の事故の経験を日本のみでなく、他の国の皆さんと共有する必要性を強く感じていました。そこで、被ばく医療の体制にしても、原子力施設の中の医療体制にしても、次の災害に備えてどうするのか、そうした検討を行う会議にも携わっていました。

原発事故による住民の避難や、イチエフでの負傷者たちを救護にあたった医師たちの証言、奮闘を記録した壮絶なドキュメンタリー。

「誰が命を救うのか」鍋島塑峰 原発事故と闘った医師たちの記録
原発事故による住民の避難や、イチエフでの負傷者たちを救護にあたった医師たちの証言、奮闘を記録した壮絶なドキュメンタリー

「地域の医療〜ふたば医療センター附属病院開院」

僕は緊急避難の支援に携わったということもあり、双葉地域の医療の推移を注意深くみていました。避難に際して多くの人が亡くなったということを、自分自身の中で心の重みのようにずっと引きずっていました。

いろいろなご縁を通じて、2015年に福島県立医大に赴任しました。そして、翌年の2016年4月に県立医大に「ふたば救急総合医療支援センター」(*4)が設置されました。

2016年の年頭記者会見で、内堀知事が救急医療施設を双葉地域に整備すると発表しました。当時、県立医大の理事長であった菊地先生(菊地臣一教授)は、双葉地域の医療体制の整備は県立医大の重要な責務のひとつであると位置づけました。そして県立医大と福島県(病院局)により、双葉郡の救急医療の支援と病院の整備に向けた取り組みが始められました。僕はふたば救急総合医療支援センター長を仰せ付かり、コンセプト作りや設計を含めて、ふたば医療センター附属病院の開設に向けて準備して行きました(2018年4月開院)。

福島県立ふたば医療センター附属病院

「スタッフのケア」

開院する前から、復興事業や除染事業関係者の受診が多いことは想定していました。また、高齢で病気をかかえた方も多いだろうという事も想像できました。一番想定外だったのは病院で働くスタッフでした。病院を支えるスタッフについては、彼らの心のケアも含めて、この地域でしっかり業務ができるようなサポート体制を作ることが非常に難しいと思いました。当初、職員の求人では県はずいぶん苦労されたと思います。看護師、診療放射線技師、管理栄養士は、県内外の病院にお願いして支援にきてもらいました。看護師の定員は30名ですが、今も欠員があります。この他、薬剤師や他の医療スタッフ、事務職含めて50名弱が働いています。彼らにとって生き甲斐を持って仕事ができる環境かどうかが常に問われました。双葉地域の復興において、当院は非常に重要な役割を担っているのですが。

双葉地域では生活環境の土台が整っていない、例えば、都会であれば、むしゃくしゃしたことがあったら同世代の友人に相談したり、食事に行ったりとか、娯楽施設があったりとか、そういうストレス発散もあると思いますが、こちらではそのような環境がなく、悶々としてる方もいるのではないかと思います。

原発事故による避難で生活基盤が崩れたところに新たにコミュニティーが作られている、そして遠距離通勤している職員には(通勤が)重い負担となっている、業務内容というよりはそれを支える仕組みの弱さをこの3年間強く感じました。他の地域の皆さんにはなかなか理解しにくいと思いますが・・・。

「地域の医療」(とみおか診療所、富岡中央医院)

町内の診療所からはしばしば患者さんを紹介していただいています。ただ、当院としてはどんどん患者さんを集めるというのではなくて、むしろ、地域の先生方の診療に影響しないよう心がけています。県立病院ですので、ある意味で隙間産業かも知れませんが、先生方の診療を支えるような形で役割を果たさなければいけないと考えています。

例えば、診療所で対応できない患者さんについてはこちらに紹介していただき、こちらで治療した患者さんについては診療所に戻して診ていただくとか、あるいは診療所の患者さんを訪問看護という形でこちらから支援したりしています。大事なのは住民にとって利益になっているかという事であり、ここに住んでいても医療上の不便をできる限り感じないようにする事だと思います。都会のように色んな専門科がすぐ近くにあるわけではないので、ここではハンディキャップはあると思いますが、そういうハンディをできる限り軽減することが、全ての医療施設の役割ではないかと思います。

大熊町も週に1日(半日)だけですけど診療所ができましたね。大熊町の患者さんは、今村先生(とみおか診療所)や井坂先生(富岡中央医院)のところで診ていただいてる方もいますし、当院の訪問看護師がお世話に伺っている方もいます。現時点で利用できる医療資源をうまく使うことによって、住民のニーズに応えるという形が良いと考えます。地域医療は住民のニーズに合わせて変わっていかなければならないと思っています。

また、双葉郡町村の共通の課題と思いますが、高齢で交通弱者が多い地域ですので、いずれ復興予算が削減されてきた場合に、送迎バスがどうなるのか、そうした場合に往診で対応できるかなど、それぞれで考えていかなければいけないと思います。帰還された方の中には重い病気をかかえていたり、癌(がん)の終末期の方もおられます。最後は自宅で迎えたいというのは当然の希望であり、自宅で看取られるのは本人にとって本望なんじゃないでしょうか。そうした方に提供する医療というのも大事であると思っています。

ふたば医療センター附属病院は県立病院という事で、敷居が高いと思われがちですが、決してそうではありません。老老介護の方の自宅に訪問看護にいったり、医療が必要な方にはできるだけ敷居を低くして、いつでも医療が提供できるように努力しています。風邪でもケガでもいつでも来て下さい。僕らは双葉郡の皆さんの病院ですから。

「阪神淡路との違い」

僕が最初に災害医療に携わったのは、阪神淡路大震災でした。あの時は北九州にいました。震災後まもなく、自衛隊のヘリで現地に入りましたが、僕の子どもも小さかったですし、出動する前に遺言書を書きました。高速道路が倒れていたり、建物が倒壊していたり、大火事がおきていたりと、当時は何が起きるかわからないという危機感がありました。一方、放射線は測れます。測定器があれば簡単に測定できますし、適切な防護ができるんです。ですので阪神淡路大震災の時のような危機感は今回はなかったように思います。

「これから」

僕は福島に片道切符で来ました。広島に帰ることは全く考えていません。いつあの世に行くのか分かりませんし、悔いのない生き方をしたいと思っています。今やってることも望んでのことですし、色々トラブルや課題はありますが、それも必要なものという気がしています。生活に足りないものがあるとか、不便だとか言ってられませんからね。スタッフについて、生活環境をどのように変えていけばいいのか、どのようなインセンティブをつければいいのか、どのようにサポートをしていけばいいのか、そのように考えていかないと物事は先に進みませんから。

富岡では、僕は快適に過ごしてます(笑)。既に子育ては終わっていますし、原発事故後の関わりから、この地域に思い入れがある、自分のベクトルがこちらに向いてるからだと思うんですよね。あとは自分の人生の中で、医師として、あと何年くらい現役でやれるのかと考えたら、おそらく第四コーナーだと思います。そうした状況でここで仕事ができるのは、とてもやりがいを感じています。

最後にもう一つ、数年前とは雲泥の違いで町の景色、環境がどんどん変わっています。そういう変わっていく姿の中に身を置くっていうのも良いものだと思っています。

(*1)三次被ばく医療機関
・ 初期被ばく医療体制
外来(通院)診療等を念頭においた医療。被ばく患者の応急処置及び周辺住民への初期対応を担う事業所内、避難所などの医療施設や外来診療を行う近隣の医療機関が機能する。(県内/南相馬市立総合病院、双葉厚生病院、県立大野病院、今村病院、福島労災病院)
・ 二次被ばく医療体制
入院診療を念頭においた医療。汚染の残存が危惧され、相当程度の被ばくをしたと推定される患者が転送され、全身除染、汚染創傷の治療、汚染状況及び被ばく線量の測定、血液・尿などの検査・分析が行われる。(福島県立医科大学医学部附属病院)
・ 三次被ばく医療体制
専門的入院診療を要する医療である。国立大学附属病院等の学際的に高度専門治療を施す地域の中心となる医療機関が、放射線防護協力機関等と連携し医療を行う。地域の三次被ばく医療機関は、その地域ブロック内の医療機関間における被ばく患者の搬送、技術協力などの調整を行う。
(東日本/放射線医学総合研究所、 西日本/広島大学)

(*2)JCO臨界事故

1999年9月JCO東海事業所の核燃料加工施設で発生した原子力事故(臨界事故)。作業員3名中、2名が死亡、1名が重症となったほか、667名の被曝者を出した国際原子力事象評価尺度(INES)でレベル4の事故[2]。福島はレベル7。

(*3)放医研

国立研究開発法人 量子科学技術研究開発機構 放射線医学総合研究所(千葉県千葉市)

放射線による人体の障害並びにその予防,診断および治療に関する調査研究,放射線の医学的利用に関する調査研究などを行うために,科学技術庁(当時)の付属機関として,1957年7月に発足した研究機関。平成13年に、文部科学省所管の独立行政法人に改組され、平成28年に法人としては日本原子力研究開発機構の一部と合併し、量子科学技術研究開発機構となり、研究所はその一部門となった。平成31年に、量子科学技術研究機構量子医学・医療部門の一部門となった。

(*4)DMAT

2005年4月、厚生労働省により、災害派遣医療チーム、日本DMATが発足。阪神・淡路大震災での教訓を生かし、医師、看護師、業務調整員(医師・看護師以外の医療職及び事務職員)で構成され、大規模災害や多傷病者が発生した事故などの現場に、急性期(おおむね48時間以内)から活動できる機動性を持った、専門的な訓練を受けた医療チーム。Disaster Medical Assistance Teamの略。

(*5)「ふたば救急総合医療支援センター」

平成28年4月、双葉地域の二次救急医療の確保と広域的な総合医療支援を目的として福島県立医大に設置された。

谷川攻一さん 昭和32年3月15日生