鈴木すずき 裕次郎ゆうじろう さん | 浪江町

鈴木すずき 裕次郎ゆうじろう さん | 浪江町

有限会社 鈴木新聞舗 代表取締役
出身:浪江町

経営を引き継いだ直後の大震災

祖父が興した鈴木新聞舗は私で3代目。本当は兄が継ぐ予定で、私は別の道に進むつもりだったのですが、事情があって私が跡継ぎになりました。それで、当時通っていた専門学校を辞め、19歳で東京の新聞店へ修業に行ったのです。そこは業界でも「日本でいちばん大変」といわれている激戦区。そこで営業、配達、集金など経営に必要なことを一から学びましたが、振り返ればこの2年間がいちばんキツかったですね。朝から晩まで無我夢中でした。

そんな修業を終えて浪江に戻り、しばらく親とともに働いて、2010年27歳のときに経営を引き継ぎました。その直後に東日本大震災が起きたのです。いまこそ新聞の情報が求められていると思い、当日の深夜に届いた新聞を12日の早朝、津波被災した地域だけ避けて配達に回りましたが、家屋の崩壊、道路の寸断などでとても全部は届けられません。手元に残った新聞を避難所になっていた体育館に持っていくと、皆さん奪い合うように手に取って、食い入るように読んでいました。新聞の大切さを改めて認識した瞬間でしたが、翌朝には私たちも避難しなければならなくなったのです。

親戚や知友人を頼って福島市、新潟県の新発田市、柏崎市と避難先を移動した後、修業時代にお世話になった東京の新聞店から声をかけていただき、そこで再び1年ほど働きました。何もしないでいるわけにはいきませんでしたからね。そこでそのまま働き続けることもできたのでしょうが、自分はどうしてもその気にはなれず、1年という区切りで福島県に戻ってきました。

廃業覚悟から営業再開への決意

ほかの商売なら別の土地へ移ってやり直すこともできますが、新聞店にはテリトリーというものがあります。浪江でやっていた新聞店をそのまま他所へ移すことはできません。だから、当時両親が避難していた郡山へ戻って来たときは、鈴木新聞舗はもう廃業してキャリアチェンジすることを考えていました。そして、今後の需要を見据えて介護福祉士の資格を取ろうと勉強し始めたとき、2016年11月から浪江町で準備宿泊が始まることになったのです。

準備宿泊開始ということは、避難指示解除に向けて町内の自宅に寝泊まりする人が増えていくということです。浪江町では新聞の購読率が85%と高かったこともあって、ぜひ前と同じように新聞を配達してほしいという声が上がり、役場から熱心な依頼がありました。むろん最初は断りましたよ。採算が合わないことは分かっていましたから。

でも戻ってくるのは高齢者が中心。大切な情報源である新聞は生活の一部という人もいます。ずいぶん悩みましたが、最終的に「これは誰かがやらなければ」という使命感に動かされ、両親の反対を押し切って営業再開を決断。結婚したばかりの妻とともに南相馬市へ引っ越し、2017年1月25日、配達を再開しました。最初の配達先は10戸でした。

その約2か月後に町の一部で避難指示が解除されて、徐々に町内の居住人口も増え、配達部数も増えてきてはいます。今年(2018年)4月からは(隣の南相馬市)小高地区の配達も担当することになり、現在町内が150部、小高が150部、あわせて300部ほど。でも、大震災前の3,000部にはまだまだ遠く及びません。当時の鈴木新聞舗は20人態勢でしたが、いまは小高の配達を担当するスタッフが一人いるだけで、浪江町内はすべて私ひとりでやっています。

一人で限界に挑む日々

毎朝2時半ごろ出勤して配達し終わるのが7時くらい。本当は5時台には終わらせたいのですが、一人ではなかなか・・・。この状態なので、新しくお申込みいただいても、あまりに場所が離れているとお断りせざるを得ず、心苦しいです。だからといって今の部数ではスタッフの増員も難しく、ジレンマですね。

配達が終わると、広告チラシの折り込み、請求書作成といった事務、そして集金をします。この集金というのがお客様と顔を合わせて話をする機会なので、そこで私自身が情報の架け橋になれればという思いはあります。それに、ポストに新聞がたまっていておかしいなと思ったら、しかるべきところへ報告もできますしね。また、町内に新しくできたお店を紹介する「かわらばん」を作ってお配りしていますが、これを楽しみにしてくださるお客様もいらっしゃるんですよ。

もっとも、営業再開したことが果たして正解だったのかどうかは分かりません。そもそも避難指示解除時点の居住人口が町の想定より相当少なかったですし、増加のペースもこのままでは正直厳しいですね。人が戻って来なければ部数も増えないし、配達員も増やせない。配達と合わせて以前のように物販などのビジネスをやろうにも、今は人手が足りないし、なにより絶対数が少ないので苦しいところです。ただ、この状況でも続けていられるのは、東京での修業時代があったからこそ。あの修行の辛さに比べれば今の大変さなんて何ともない、と思えるのです。

昨年、子供が生まれました。今まで「誰かがやらないと」という使命感だけでやってきましたが、これからはやはり家族のことを第一に考えなければなりません。商売が新聞店でなければ、浪江に戻るという選択があり得なかったのも事実です。悩みながら選択していくことになるでしょう。

2018年10月取材
文/写真:中川雅美