佐藤さとう 秀三ひでぞう さん | 浪江町

佐藤さとう 秀三ひでぞう さん | 浪江町

佐藤種苗店/権現堂地区区長
出身:浪江町

困った時のだれだれさんでありたい

私は、浪江町は日本で一番いい土地だと思っています。自慢できる気候ですし、避難しても絶対に戻ろうと思っていました。女性は嫁いだ先で暮らしていきますから適応力が高いですよね、男って生まれた場所に愛着信が強い。そういった意味では弱いのかもしれませんが、仮設を閉じた時に言った言葉なのですが、「愛着心があれば浪江町は無くならない。」そう思っています。

昭和18年頃、おふくろは銀座で中華料理店を経営していました。戦争が酷くなるからと、いわゆる疎開で、当時私はお腹の中にいたのですが、浪江町に二つ上の兄と引っ越してきました。おふくろは飯館村出身で、浪江町でバスを乗り継いでいましたから、その時の縁があったからですね。
小さい頃から、町に何があったか思い出していくのが好きでした。浪江は職人の町でしたから、大工さんがいて、唐傘屋さんがあって、下駄屋さんがある。そういった昔の町並みを思い出しながら、歩いてばかりいました。今でも、この地区の区長として取り壊してしまう前に自分の区の家の姿は残そうと全て写真に撮ってあるんです。

学生時代におふくろの影響もあって都内の中華料理店でバイトをしていました。その後、六本木の料亭に声をかけてもらって修行したあと、新宿で洋食のシェフをして暮らしていました。子供が産まれたのですが、喘息を患っていました。その時、群馬に引っ越そうかと言っていたんですが、おふくろが「なぜ群馬に、浪江町があるんだからこっちへ来たらどうだ」と言われ、それでまた浪江町に戻ってきたんです。
浪江町に戻ってきた当初は、大熊町でレストランをやっていたんですよ。その頃は原発を建てているときで、100人ほどが毎日バスでやってくる。それを切り盛りしていました。おふくろが亡くなった事で、今の店を継ぐことになりました。

色んな人がいるから批判を受けてしまうかもしれないけど、私は震災で避難していて厳しかったと、そう思ったことはありません。今日は何しよう、明日は何しようって、そればかり考えていました。こうなったら良いんじゃない?こうすれば良いよね、とやっていました。
昔、町誌に”困った時のだれだれさん”というのがありまして、その人に頼むと大体のことが解決していました。その役目に私はなろうと思っています。取り敢えず答えを出す、ダメだとしてもです。先日は畑を借りたいという人が訪れまして、そういった時すぐに動けないといけないと思ってます。区長を務めていますから、色んな情報が入りますし、いつも情報は探していて、頭に入れておくようにしています。

これまで沢山の支援を頂いてきました。震災からのことを残していこうとファイルにためています。避難生活記録として始めたものが、今10冊ほどになります。今は浪江町の日記の記録になっていますね。あの時、こんなことをしてもらったなと。
今まで沢山の支援物資が送られ、忘れられない思い出が沢山できました。どれもなんですが、特に思い出に残っているのは震災の翌年のことです。佐賀県佐賀市にある、小中合わせて70人しかいない松梅小中学校の先生と福島大学の方が繋いでくれまして、その先生からお年寄りを紹介して欲しいと言われました。仮設にいる高齢者を調べて名前を書いて送ったんです。そうしたら個人宛に一枚一枚一生懸命書いてくれた暑中お見舞いが届きました。ありがとうのお返事をまた送って、それが次の年には年賀状になったんです。子供たちが干し柿を作るアルバイトをしてくれて、羊羹と干し柿を仮設にいたお年寄りの人数244個分送ってくれました。そうしたやり取りは今年の正月まで続きました。
それが一番力強かったと思っています。やっと字を覚えたばかりの子たちが書いてくれた。もし、逆に支援を向こうが必要とすることがあったら、こうした事が出来たらと思っています。

最近では浪江町と小高区の人達が行ったり来たり出来るようになってきました。若い人達も繋がりを作ってくれています。その町だけを考えるのではなく、双葉郡が一つの町のように思ってもらえたらと思います。
私はいつでもここにいますから、遊びに来てください。

2018年2月取材
文/写真:吉川 彰浩