武内敏英さん元大熊町教育委員会教育長、前双葉地区教育長会会長

武内敏英さん
元大熊町教育委員会教育長、前双葉地区教育長会会長

「子どもの頃〜大学時代」

子どもの頃は、遊びといえば野球しかありませんでした。桑の木でバットを作ったり、布切れの芯に石入れて丸めてボールにしたりして遊んでいて、だんだん布のグローブや軟式ボールとか手に入るようになってきました。神社の境内とか田んぼとかが遊び場でしたね。中学に入ってからも野球部で、高校でもやろうとしたら「野球ではメシ食えねえ」と家族に反対されました。大学に入ってからも野球やりたかったんですけど、試合に行く旅費から何まで全て自費だと言われ、これはやっていけないと思い、一年間は悶々としていました。でも2年生になってから、ソフトボールならできるんじゃないかなと思って、同じ思いの双高と磐高出身者を集めてソフトボールのチームを作ったんです。あとから入学してきた双高の後輩達は無理やり入れてメンバーを増やしました。大学を卒業してからも後輩達が受け継ぐ一方で、今度は教員になった人たちでOBチームを作りました。もうそれが50年以上続いてるんですよ。年取って教頭、校長になっても続けてきました。

「町の変化」

第一原発の工事が動き始まった頃(73年1号機運転開始)は、地元を離れていたので実感はなかったんですが、たまに帰省した時に、原発ができるとか、東電社員の宿舎ができるとか、働く人が沢山きて町の食堂が忙しいとか、そのようなことを間接的に聞くくらいでした。校長として大熊に戻ってきた時は(平成9)、昔に比べて人口が増えて賑やかになってましたね。特に生徒の数が多いのにはびっくりしました。戻ってきた年は全部で525人(1学年175人くらい)もいたので。全校生徒が揃うと体育館が狭く感じましたね。大熊中の校長は定年になる前の58歳までで、平成14年10月から大熊町教育長として震災を挟んで4期16年勤めました。

「相馬野馬追」

野馬追の執行委員長は南相馬市長で、副執行委員長は各市町村の長か副町長か教育長がやることになってるんです。大熊の場合、当時は副町長が務めていたのですが、平成19年に身内に不幸があり、それで自分にお鉢が回ってきたわけです。最初は馬が怖かったんですが、良い経験になりました。その平成19年から22年まで4回出場して、震災後は平成23年から26年まで4回は出場できませんでした。復活したのは平成27年。その時、他郷の騎馬会の仲間たちが皆温かくて、「良かったなあ!」「待っていたよ」などと声をかけてもらったのがとても嬉しかった。それから教育長を退任する平成30年まで4年出場したので、震災を挟んで計8回出場しました。関係者の皆さんに改めて感謝とお礼を申し上げます。

「震災当時」

3月11日に地震がきた時は役場の教育長室にいました。事後対応に追われながら一夜が明け、翌12日の朝に避難指示がでて、町民がバスに乗り合わせて田村方面に避難しました。避難が終わったという報告を受けるまでずっと役場に張り付いてて、午後2時頃、田村市役所に町長と議長と私の3人で挨拶に行ったのを覚えてます。

大熊町は田村市総合体育館に避難所と災害対策本部を設置しました。その頃の事故に対する意識は原発が危険だとかいうのはなく、原発の安全神話、つまり原発は何重にも防御してるから安全なんだと思ってました。だから町民もそういう感覚でバスに手荷物一つで乗ったので、避難が比較的スムーズにいったというのもあるのでしょう。

自分も2〜3日したら帰れるだろうと思ってました。しかし田村の市役所に挨拶をして体育館に戻った時、原発が爆発したと聞かされたのです。そんなことがありえるのかという思いと、これは大変なことになるのではないかという思いが湧いてきました。でもやっぱり頭のどこかにそんな大変なことがあるはずはないという思いがあって、町民には大丈夫だからって、安心してもらうように努めていました。

「子ども達の安否確認」

田村の体育館に避難してから、各学校ごとに保護者と連絡を取るように動き出してもらいました。ただ各学校でクラスごとに連絡網を作ってはいたのですが、それが全部家の電話番号だったんです。だから避難してしまっては全然役に立たなかった。携帯も2〜3日通じませんでしたし。

PTAの役員や知り合いを辿って、徐々に子ども達の安否を確認していってもらいました。なかなかわからなかったのもありましたが、最終的に、会津若松市で学校を立ち上げる(*1/2011年4月16日)段階では、ほぼ連絡は取れていたように思います。

(*1)大野小、熊町小、大熊中、幼稚園の合同入学式は2011年4月16日会津若松市文化センターで行われた

「学校の立ち上げ」

会津若松市や教育委員会の全面的な好意で、会津で学校を立ち上げることができたのですが、他の自治体に学校を立ち上げていいのかという葛藤はありました。でも子ども達のことを考えれば、お願いしますというしかなく、学校が始まってもこの後どうするべきか、何をしなければいけないかというのは絶えず頭の中にありました。学校の名前にしても、会津若松市なのに大熊町立大野小学校や熊町小学校でいいのかと。最初は「分校」と付けようかとも考えたのですが、会津若松市の教育長が「遠慮しないで堂々と大野小学校、熊町小学校でいい」といってくれたので、そのまま使いました。

「双葉郡教育復興ビジョン推進協議会」

会津に避難した次の年の4月(2012年)から、双葉地区教育長会会長に就いて、今後に向けて動き出しました。双葉郡の子ども達が全員避難になって大変なことになっていたので、誰にまかせるでなく双葉郡の教育長会自らが子ども達を救ってやるしかないと、教育長会で言い出したのが私だったんです。原発っていうのは、子ども達にとっては生まれた時にはもうそこに存在していて、一切事故の責任がないんですよ。それなのに何が何だかわからないうちに避難となって、家も学校も友達も家族ともバラバラになって逃げたわけです。そして避難先でいじめにあったり、知らない土地で馴染めなかったり大変な思いをしていたわけです。
ですから私たち教育者は、子どもたちに対してその責任の一端を償うには、教育で子どもたちに返すしかないという強い思いがありました。そしてただ学校を建てて戻ってこいだけではダメで、今までの教育の中身とその方法を変えなくてはならない。そういう思いで協議会を立ち上げて、臨んでいったのです。

2012年9月に教育長会で文科省にいき、双葉郡の子どもたちがおかれている状況と我々の思いを訴え、協力を要請しました。文科省はとても好意的で、文科省で音頭をとるから地元が主体になって、今後の学校教育をどうすればいいか協議会を立ち上げようということになりました。それが「福島県双葉郡教育復興に関する協議会」でした。
そのメンバーは文科省、復興庁、県教育委員会、福島大学、協力委員の方たち、そして推進部隊の我々が入って、2012年12月に第一回目の会議を開きました。そこから多くの会議を経て「双葉郡教育復興ビジョン」を策定したのです。(*2)この復興ビジョンを2013年7月に文科大臣と復興大臣に手交し、全面的な支持をいただきました。ここからふたば未来学園の立ち上げが始まったんです。設置場所の選定や学校の名称など、双葉郡の町村長会や関係各所との話し合いの場を持ち、諸々の了承を得て、福島県立ふたば未来学園高校を開校するに至りました。

(*2)「双葉郡教育復興ビジョン」震災後の子どもたちの学びを守り、未来を生きる強さを持った人材に育てることを目指し、双葉郡8町村の教育長を中心に取りまとめられました。
http://futaba-educ.sakura.ne.jp/wp/wp-content/uploads/2014/06/vision20130731.pdf

2013年7月31日双葉郡教育復興ビジョンを策定し記者会見(文科省にて)

2015年4月7日ふたば未来学園

「ふたば未来学園立ち上げ」

学校立ち上げに関しては、PTAや各校同窓会、関係各所で、色々な意見がぶつかりあいました。でも私たちはこういう非常事態になった時に、大事なのは子どもの目線だと考えていました。小中学生が今までの高校でなければダメだとは言わないだろうし、ともかく中身が濃くて良い学校を作ってもらいたいという思いだろうと考えたのです。場所の選定も色々悩んで議論しました。最も重視していたのは放射線量との関係ですね。当時はいわき市という案もあり、また双葉郡の子ども達が通うなら双葉郡内の方がいいという意見もあり、線量的に問題ない広野町、そして川内村という名もあがっていました。最終的には「双葉郡の南部とする」とだけ決めて、町村長会に決定をお願いしました。町村会では県教育委員会に決定をゆだね、最終的に広野町に決定したのです。設置場所が決まったとはいえ、一旦は避難した区域で学校を立ち上げるということ、これは大変なことでした。
賛否を含めて色々な意見がありましたが、私は急いで立ち上げなければ、この話は潰れるんじゃないかという心配もありました。ひとつ良かったと思うのは、第一回の協議会の時に、最速でいつ立ち上げられるかというのをみんなで話し合って、2015年4月ならギリギリできるという共通認識を得た事です。ゴールを決めておかないとずるずると伸びたりするので、ともかく立ち上げるんだと決めてから、だいたい1年半くらいで開校できたのです。

ふたば未来学園/現広野中学校校舎

ふるさと創造学サミット

「学校の中身を変える/地域との交流」

これからの学校は、教育の中身も方法も今まで通りではダメだと思ってました。そこで子ども目線でどんな学校がいいかというのを検討するために、双葉郡子供未来会議(*3)というのを立ち上げて、小中高校生から12〜13回話しを聞きました。この会議には学校の先生や校長先生も参加した中で、ある中学生が切り出したのが、教科書と黒板だけの授業はいやだということです。そうしたら高校生も小学生もみんな同じ思いを持っていて、そこから「ふるさと創造学」という授業が生まれました。ですからこの「ふるさと創造学」は、双葉郡の子ども達によって生みだされた授業なのです。子どもたちが地域に出て、地域の人と触れ合い、子どもたちが成長する場を作る。大人も子ども達とふれあってると、勉強しなきゃ答えられないっていうこともあって、それでお互いに成長できるという授業です。我々は「地域は子どもを育てる」というのをキャッチフレーズにしてきました。未来学園はそれを引き継いでやっているのです。こういうやり方が全国に広がればいいなと思ってます。
(*3)双葉郡子供未来会議
双葉郡のすべての子供と保護者や教員などの大人が県内外から集まり、双葉郡の教育復興について考え対話する場/主催:双葉郡教育復興ビジョン推進協議会
https://futaba-educ.net/future

2013年10月13日双葉郡子ども未来会議で子どもたちの声に耳を傾ける武内先生(会津若松市にて、双葉高校生らと)

このモデルが隠岐島にありました。我々は立ち上げる前にそこを視察に行ったんです。隠岐島は人口減で高校が潰れそうになった時に高校を改革して、国内留学=全国から留学生を受け入れるというやり方をしていました。そこでの授業の中身が「ふるさと創造学」のようなもので、体験を沢山入れて、それを通して学ぶ授業なんです。私たちが思ってることをすでにやっていたので、双葉郡の子ども達の思いを生かして、それを一つのモデルにしようと考えました。
それは双葉郡の子ども達が望んでる授業でもあって、子ども達は体験学習とはいわずに「動く授業」という名前をつけました。以前は社会見学といっても子とも達は受け身で言われたところに行くだけでしたが、今の体験学習は自分達で何か課題を見つけ、それを持って地域に出ていくというやり方です。学びというのは主体的でなければ成立しません。今までの学びの立ち位置を変えていったのが今の未来学園のやり方だと思います。

2014年1月30日地方創生と高校魅力化の先進地、島根県海士町へ。隠岐島前高校で生徒たちに双葉郡の話をする武内先生

「大熊町立学び舎ゆめの森」(*4)
教育長を退任する時(平成30)に町長とも協議して、あと5年くらいしたら大川原に学校を立ち上げるというところまでが自分の役割でした。
各町村で、帰還を進める受け皿として色々な要因がありますが、その中の一つに学校があると思います。学校があるから戻るのか、戻る人がいるから学校をつくるのか、どちらが先なのかは意見が分かれるところですが、まずは大熊町の学校として魅力のある教育を打ち出そうと。勿論、これまで培ってきた読書活動を中心にして。
そして学校を再開できる大きな要因として、まず原発の本体が安全かどうかというのを、小さな子供を持つ親たちは絶えず見てるんです。だからそこが不安な親は、二の足を踏む人がいると思いますね。これは当然の事で、そこを丁寧に説明して安全安心というところを納得してもらえるかどうかは大きいと思います。

(*4)「学び舎ゆめの森」2022年4月大野・熊町小学校と大熊中学校が「学び舎ゆめの森」として統合。2023年春には、認定こども園と義務教育学校、預かり保育、学童保育を一体にした施設として大河原地区に開校。
https://manabiya-yumenomori.ed.jp/

2015年3月7日 未来会議に参加してくれた武内先生@いわき市労働福祉会館

「2020.6.30大熊町特定復興再生拠点の避難指示解除について」

どうなんでしょうねえ….。やっぱり原則は昔の大熊に戻して帰還してくださいというのが前提なんでしょうけど、その前に私の場合は自宅を解体した時に、すごい喪失感に襲われたんですよ。ああこれで終わりなのかと。今回の解除になった時より、心の中での区切りは家が無くなった時点でした。今現在は解体した敷地の周りに庭木が何本か残っていて、それがなくなったら…..。そして更地になってあと何十年か経ったら、ここに誰がいたかなんてわからなくなってしまうのでしょう。自分としては「終わりの始まり」という感じですね。解除をもって前向きには簡単にはなれません。家の近所だってほとんど帰らないしね。

2022年6月30日 大熊町特定復興再生拠点の避難指示解除

「今後の双葉郡」

災害からの復興ていうと、どうしても今までの日本では目立つのが道路とか建物なんですよね(今回も同じような気がしています)。でも人間というのは「パンだけでは生きていけない」といわれるように、心の支えになるものが必要なんですよ。それは文化とか芸術とか教育、それが心の糧になって、生きがいに通じていくんです。どんなに金と食べ物があっても、それが生きがいには繋がらないんです。
パン以外の何かと言ったら、例えば地域で引き継いできた郷土芸能をはじめ、読書、音楽、芸術、映画とか舞台とか色々ありますよね、そういうようなのをみんなで大切にして、目を向けていく双葉郡というのがこれから必要だと思ってます。以前の地域社会を元に戻すというのはもう無理なのです。文化面を重視していけば新しい地域作りにもなるんじゃないかと思ってます。

武内敏英著、大熊町教育委員会編/かもがわ出版

「大熊町学校再生への挑戦」学び合う教育がつなぐ人と地域 武内敏英著、大熊町教育委員会編/かもがわ出版

武内敏英さん 略歴 1944年(昭和19)6月5日生 78歳
大熊町生―大野小学校―大野中学校―双葉高校―福島大学卒
略歴/表郷第一小―檜枝岐中―富岡一中―福島大学教育学部附属中―磯部中―相双教育事務所―津島中学校(校長)―県教育センター
1997年(平成9)〜2002年(平成14)大熊中学校(校長)
2002年(平成14)〜2018年(平成30)大熊町教育委員会教育長
2012年(平成24)〜2018年(平成29年)双葉地区教育長会会長