坂本さかもと 明彦あきひこ さん | 広野町

坂本さかもと 明彦あきひこ さん | 広野町

有限会社広野興業 代表取締役社長

子どもたちがもっと楽しく遊べる環境づくりを

俺が代表を務めている「広野興業」は祖父が50年以上前に広野町で立ち上げた、主にガラスやサッシなどを扱う会社で、自分で3代目になります。

震災当日は町内に新築されたお客さん宅のフェンス工事をしている時に大きな揺れに襲われました。余震が続いていたため自宅が心配になったほかの作業員2人はすぐ帰ったのですが、俺は地震で動いてしまった柱部分を一人で直してたんですよ。
工事現場は比較的海に近い場所だったため、しばらくすると近所の方が「津波が来るから早く逃げろ」と言いに来て、家人と共に高台に避難しました。その際、浅見川から津波が遡上してくるのが見えました。これでは仕事は続けられないと思ったので一旦自宅に帰ったのですが、俺は消防団に入っていたのですぐ屯所に移動し、団員と一緒に高萩地区の警戒に当たりました。
ただ、津波が沿岸部を襲っていたため身動きが取れず、田んぼなどが津波に飲み込まれていくのをただ見ていることしか出来ませんでした。自宅は地震によりぐちゃぐちゃになってしまいましたが、幸い電気は通っていたので自宅で一晩過ごし、翌日早朝から津波浸水区域に住民などが立ち入らないための警護をしていました。お昼過ぎに元町長から招集がかかり「広野町は自主避難することに決まったので、消防団として町に残るか避難するかは自己判断で」と言われたので、父と母はいわき市の妹宅へ。俺は中之作にある妻の実家へ移動したのですが、14日には妻の実家も避難することになり、俺と妻は息子を連れて先に新潟県へ避難していた友人の親せき宅へ移動することにしたんです。

新潟には2週間ほどお世話になったのですが、2007年に新潟中越沖地震を経験していた近所の人たちが「困ったときはお互い様だから」と食料を持ってきてくれたりと、とても親切にしてくれたので本当にありがたかったです。

震災から事業再開まで

その後妻の会社から「早く戻ってきて」と連絡が入り、俺たちはまたいわき市で生活を始め、自分もお客さんから要望が入り、4月からは妹宅にプレハブを設置し、仮事務所を置いて事業を再開しました。
仕事量は細々とでしたが、避難生活で何もしない生活が続き精神的に辛かったので、また仕事が再開できたときは正直ほっとしましたね。

それから江名の借り上げ住宅や四倉の仮設住宅での生活を経て、震災でダメになった自宅をリフォームしたのち、2014年には広野町の自宅に帰ってきて、現在に至ります。

震災後は主に避難区域などで空き巣や害獣被害により割れてしまったガラス等を修理する業務に携わり、現在は富岡町や楢葉町を中心に自宅をリフォームされる方のお手伝いをしています。

震災当時は俺自身も福島市内のレストランから「いわきナンバーの車だから」と入店を拒否されたり、県外に避難した親類は差別や嫌がらせを受けたりと、嫌な思いも確かにしました。一部では未だにそういった行為が続いており、心苦しく思う時もあります。

俺が広野町に帰ってきた理由は、広野町が家だからです。長年住み続けた場所ですし、愛着だってあります。避難当初から帰ってくることは視野に入れていたし、今年高校受験を控えた長男の生活環境を考えたとき、少人数でのびのびと学べるほうが良いのではと、妻と二人で話し合い決断しました。
震災後に産まれた次男は今年小学校に入学し、あれから7年もたったのだと思うと時間が流れるのはあっという間だなと感じます。

広野町へ帰還した町民は7割だと聞いています。それぞれの避難先で生活を固めた人も多いので、これ以上は帰ってこないだろうと考えます。要望を上げるなら、もっと子どもたちが集まれるような施設など、安心して遊べる場所を作って欲しいなと思います。

2018年11月取材
文 ・写真=S/T