新田にった 誠一せいいち さん | 広野町

新田にった 誠一せいいち さん | 広野町

新田自動車整備工場

生まれ育った広野町でこれからも頑張っていく

「新田自動車整備工場」は、自分の父親が昭和50年代後半に広野町に立ち上げた会社です。 自動車の整備や修理などが主な仕事ですが、希望が有れば車両の販売も行っています。震災後は復興関連で県外から来られる方も多くなり、北は北海道から南は沖縄まで、様々なお客さんが来店しています。
自分は専門学校卒業後に日産プリンス福島へ就職が決まり、配属された富岡店で整備士として働いていましが、休みの日は父親の会社を手伝っていました。

震災があった3月11日も工場で作業をしている最中に地震が発生しました。3月は決算時期と重なるため、自動車工場は繁忙期を迎えており、その日も忙しかった記憶があります。防災アラームが鳴った時は「震度4くらいの地震かな?」なんて思っていたんですが、どんどん揺れが大きくなり立っていられない状況になり、工場内にはリフトに乗ったままの車も有り危険だったため外に避難しました。
天井が高くガラス張りになっていたショールームは割れ、物も散乱し、店舗はぐちゃぐちゃの状態でした。大きな揺れが収まってからも余震は続いており、停電になっていたことから車のカーナビを使いテレビを見ると、三陸沖が津波で流されていく光景が映っていました。外回りから帰ってきた社員に「富岡駅や駅前周辺が津波にのまれた」と聞かされ、自宅も危ないのではないかと心配になりました。その後社内の片づけをあらかた済ませ、自宅から一番遠かった自分は早めに帰宅させてもらい、17時30分くらいに自宅に到着しました。
工場に向かうと父親が崩れたタイヤや倒れてしまったシャッターなどの片づけをしていたのでそれを手伝い、その後じいちゃんと母親が一足先に避難していた「広桜荘」で一夜を過ごしたのですが、一晩中ついていたテレビからは地震速報が鳴り続け、余震も続いていたために全然眠れなかったです。

翌日、前日に解散する際「一度会社に集まろう」という話しになっていたので会社に向かいましたが、到着すると誰も居ない。周りを見渡しても人の姿も走っている車も無いし、当時は携帯も繋がらなかったので連絡手段も無く、何となく桜並木方面まで向かったんですね。そしたら、川内方面へ向かう車で道路が大渋滞していたため「これはヤバイかもしれない」と思い、自分も広桜荘に戻ったんです。そこで初めて「イチエフが危ない」という話を聞き、午後には広野町の防災無線で「南へ避難してください」と流れていたため、自分たち家族も「すぐ帰れるだろう」と、2~3日分の着替えを持ちいわき方面へ移動しました。
ただ、宿を取ろうにもいわき市も水が出なく対応が出来ないと言われたため、親類を頼り東京まで避難しました。13日、2度目の爆発が起きた光景を避難先のテレビで見て「あんなになったら当分は帰れないだろうな」と絶望した覚えがあります。東京の親類宅には4月末までお世話になりました。

避難生活から広野町に戻るまで

その後自分は会社からいわき店へ異動の打診があり、父親も「復興作業に携わる車のメンテナンスをしてほしい」との要望を受けたことから、福島県へ帰還することになりました。そこでじいちゃんと母親はいわき市へ。父親は広野へ戻り、自分も自宅と母親宅を行ったり来たりする生活が始まりました。避難区域となっていた広野町での生活は最初きつかったですね。周りに誰も居ないから物騒でしたし。事務所にも空き巣が入り、家電製品を盗まれました。また、双葉郡への物流が止まっていたため、父親の会社も簡単な修理はできても本格的な業務再開には程遠い状態でしたが、何とか営業を続けることができました。

日産プリンス福島には専門学校卒業後9年半お世話になりました。自分は父親の後を継ぐことを考えており、それを汲み取ってくれたいわき店の店長が「30歳を目安に」と言ってくれ、退職したのちは一緒に工場を盛り立てています。自分を育ててくれた職場の先輩や同僚たちには本当にお世話になったので、今でも感謝しています。

自宅は半壊扱いとなったため、新居が完成する平成30年まではいわきから広野町に通勤する生活が続いていました。29年末に妻と結婚し、現在は両親と妻の4人で生活しています。

自分は震災があってからもいつかは広野町に戻ってくると心に決めていました。今の仕事は本当に楽しいですよ。車好きというのも相まって、壊れてしまった車を直すことでお客さんに満足してもらえるとやっぱり嬉しいですし、故障箇所を自分で見つけて修理できたときは達成感が得られますしね。

震災から8年近くが経過しました。何もかもが震災前の形に戻れたら良いとは思っていますが、津波被害に遭ってしまった沿岸部からは田んぼが無くなり、昔ながらの風景を取り戻すというのは無理ですよね。小さい頃友達と一緒に線路下のトンネルを通って海に遊びに行っていたのですが、トンネルをくぐると見える田んぼの広がる光景が大好きだったので、少し寂しい気持ちになるときもあります。だけど、震災をきっかけにホテルやイオン、ビルなどが建設されたことは良いことだなって感じています。
これからも愛着のある、生まれ育った広野町で、家族と共に頑張っていきます。

2019年1月取材
文 ・写真=S/T