西山にしやま かね子かねこ さん | 川内村

西山にしやま かね子かねこ さん | 川内村

富岡町出身 川内村在住

不便でも、あたたかい人付き合いのある村

昔ね、私がPTAの役員をやっていた頃の、先生たちと地域の関係って「とても親しかったなぁ」って懐かしく思うの。昔は先生が村に下宿していて、子どもたちが先生の家に遊びに行くなんてことが普通にあって、村の中にある牧場にね、先生が子どもたちを連れていってあげるなんてこともあったのよ。学級だけの交流会なんてのもあったね。保護者と子どもたちが一緒にバーべーキューをやって、色んなイベントもあったわ。相双地域のバレーボール大会とかの後には必ず反省会があって、みんなでお酒を飲むのね、どんちゃん騒ぎをして、そんなことをしていたから何でも先生に言いたいことが言える関係があったの。今は、村外から先生たちには通ってもらっているから、お酒を飲むなんてことは中々出来なくなってしまって、昔は不便だったけど、温かみがあっていい感じにお付き合いが出来たなぁって、懐かしい思い出ですね。

三重での避難生活を経て、2012年6月に帰村

震災の時は、娘夫婦の子どもが3歳と4歳だったのね。親戚を頼って三重県まで避難して…。私の主人の母が90歳を超えていたから大変でした。忘れられないのが三重県に避難した時に、体に放射能がついてないかと大学病院でね、靴カバーをはかされて、体中を測られてね。県の住宅が空いてますからそこに入ってくださいって言われたんです。
三重県に初めて来た避難者だったから、TVが取材させてくれって来て。周りの人たちは優しかったけど、なんというかなぁ、温度感が全然ちがくて…。子どもが小さくて放射能が心配って思っていたんだけど、周りはそういった話が全然なかったんです。たまにいわきナンバーの車が走っていたりすると、とても懐かしかったんです。

2012年6月に川内村に戻ってきました。まだ除染もされていない頃でした。(三重の)親せきの家にお世話になっていたけど、そんなに長くはいられないでしょ。おばあちゃんも帰りたいと言って、私とおばあちゃんで帰ってきたんです。帰ってきたときは「やっと帰ってこれたぁ」と思いました。
信じられないかもしれないけど、その当時、結構村には帰ってきている人がいたのね。その人たちとあれこれ市場でお茶を飲める場所を作って、いつもおしゃべりしていたんです、「これからどうしてようか」って。除染の作業をする人たちとお弁当を食べたりもしました。当時お饅頭を作るのが上手な人が、漬物を作るのも上手で、一緒にそれを食べたりしてね。パトロールで回る人は小野町から来てくれていてね、「どこどこにおばあちゃんがいるよ」なんて教えてもらって、うんと助かりました。あの時は20人くらいで1日3人で交代しながらやってましたね。早く帰ってきたから助け合っていました。

実家のある富岡に行くと、胸がきゅっとする

その頃って今みたいに(川内村から)富岡町には行けなくて、399号を使って(遠回りして)いわきに行くしかなかったんだけど、道が大変な場所だったから、早くトンネル工事が進むようにと、仮設住宅を回って署名活動しました。つい先日ね、ずっと要望していたトンネルが開通して本当に嬉しいし、もう一つトンネルが出来ればいわきまで30分しないで行けちゃうわけでしょ。あの頃の生活が大変だったから前進したと思うけど、でもね、震災の前から何年も要望をしてもだめだったものが復興で進んだとも言えますよね。ありがたいけど犠牲の面があるから、複雑な気持ちはありますね。

今は富岡町に行けるようになったけど、胸がきゅっとするの。川内村から真っすぐいくと夜ノ森地区(富岡町内避難区域)にバリケードがあるでしょ。あの先にね、実家があってね。震災の前は富岡町に買い物に行くと、必ず帰りには遊びによってね。桜の咲くころには庭から公園が見えたし、あの周りの家では玄関に桜の写真を飾っているおうちが沢山あるのね。今はバリケードを見るのが切なくて、寂しくて、周り道して買い物をしているのね。家を継いだ長男の気持ちはもっと辛いだろうなぁって。

ここでの暮らしが一番。村に恩返しをする

おばあちゃんと二人で住んでいた時、うちの2階は放射線量が高かったから、子どもがいる娘たちはなかなか帰ってこれませんでした。でも、三重県に避難していた子どもたちが馴染めなくて、郡山に引っ越すことになったのね。娘の旦那が役場職員だったから帰らなくてはいけない立場もあったし。私たちも辛かったけど、娘たちも辛かったと思う。
主人と暮らしていた家の隣には、おばさまが住んでいたのだけど亡くなりましてね、うちをどうしようかって話が出て。おばさまの家を壊してそこに娘たちが新しく家を建てたんです。今は同じ敷地で一緒に暮らしていて楽しいなって思えたりするのね。おばあちゃんもやっぱり川内村が良かったのかな、95歳まで生きてくれて。ここでの暮らしが一番だなぁって思うの。
 
今は民生委員の主任児童員をやっていて、まだ保育園にあがっていない子どもたち、そのお母さんたちと震災前にはなかった子育てサロンを運営しています。
仮設にいる頃のことだけど、お母さんたちから「話す人がいないんだぁ」って声がありましてね。お母さんが孤立しないように月2回開いています。お母さんたちがたまには家を出て息抜き出来るような場所が必要ですね。
私が住んでいる川内村6区の西山地区は高齢者ばかりになってしまって、社会福祉関係の世界では長生きもいいけど、健康寿命が伸ばせるような支援が必要って言われるのね。その通りだし、各行政区では活き活きサロンっていうのが開かれてましてね、歌を歌ったり、体操をしたり支援しています。
 
私は民生委員になる前は村の保育士をずっとやってきたから、村の子どもたちは全員顔が分かるのね。小さい頃面倒を見た子も、今の中学生なんてみんな教え子だから、自分の孫みたいに可愛いです。
今ね、子どもたちに“福島を復興してくれる人間になって欲しい”とか、地元を支えることが称えられることがありますけど、復興、復興と言われる子たちは負担があるんじゃないかなって思っています。川内村を出ていった時に親を裏切ったとか、ふるさとを裏切ったなんて思って欲しくはないし、大切に思ってくれる気持ちがあったらそれだけでいいのかなって。
私は保育士として30年村にお世話になってきました。たまにもう休んで静かに暮らそうかなって思ったりするんですけど、体が元気なうちは頑張らなくちゃと思っていますし、村に恩返しをしなくちゃなって思います。

2018年1月取材
文/:吉川 彰浩

浪江町