鵜澤うざわ 里佳りか さん | 富岡町

鵜澤うざわ 里佳りか さん | 富岡町

デザイナー
出身:富岡町

故郷を離れていた自分にできることは、外と内を繋ぐこと

富岡第二小、第二中から双葉高校に進学して、高校時代はバレー部と美術部、生徒会の3つを掛け持ちしてやってました。当時はミュージシャンへの憧れがあって、ミュージシャンを一番相乗効果で引き立てていると感じたのが、CDジャケットでした。そこからCDジャケットのデザインに興味を持つようになって、東京のバンタンデザイン研究所という専門学校に進学しました。
東京に出たのは単純に憧れもあったけど、当時はとにかく外に出たいという気持ちがあって。というのも、両親が富岡で会社をやっていて、今は母が社長、父が会長を務めてるんだけど、どこに行っても「〇〇(会社名)の娘」とか「西山さん(旧姓)ちの」って言われるのが当時はしんどくて、そういう理由もありました。

専門学校に行って就活する段になって、以前からCDジャケットのデザインで憧れを持っていたデザイン事務所Z&Z代表の大箭亮二(おおやりょうじ)さんに、ダメもとでアポを取って、作品を見てもらったんです。1人でやってらっしゃることもあって一度は断られて、別の会社に入ったんだけど、入社して1ヶ月経った頃に大箭さんから「手伝ってほしい」と連絡がきました。
それから会社と事務所の掛け持ちの生活が始まって。でもさすがに体調くずしてしまって、結局はデザイン会社の方を辞めて、大箭さんの事務所で働くことに決めました。

震災の時は事務所の移転作業中で、移転先でパソコンや机を受け取る準備をしているところに、あの揺れが起きた。7階だったのもあって、事務所内はぐっちゃぐちゃになりました。
福島の被害の大きさを知って「福島に支援に行かなくていいんだろうか」と思いました。でも事務所の移転は、自分が全て取りしきってやってましたし、進行中の仕事を投げ出すわけにいかなくて。
やっと連絡がついた親にも「来ない方がいい」と言われて、もんもんとしながら仕事するしかなかったです。

その頃、自分のいま持ちうる技術で、デザインで、どう被災地の役に立てるかを考えてました。例えば美容師さんは髪を切ってあげることができるし、ミュージシャンは歌や演奏で励ますことが出来るけれど、自分はそういうことは出来ない。それでずっと葛藤してました。

そんな時、「SAYONARA ATOM(さよならアトム)」という、NO NUKES(反原発)を掲げるクリエイティブチームに、友だちに誘われて参加しました。一緒に参加したイラストレーターやデザイナーの友だちが作った、かわいい横断幕を持ってデモに参加したり、原発の豆知識を書いた三角旗を作って、デモを見ている渋谷の若者に配ったりしてました。
デモって、政治に興味のある年配の方がやるイメージがあって、でも、そうじゃないものにしたかった。原発だけじゃなくて、政治の話にももっと意見を持ったり、自由に発言することへの敷居を下げることを目標に活動してました。

震災後は親も大変そうだったし、手助けするためにも福島に帰ったほうがいいんじゃないかと考えることもあったけれど、もっと実力をつけて、フリーになれるくらいになった時に、どうするか決めようと思いました。そのために他の会社のやり方も知りたくて、転職しました。

新しい会社に3年勤めて自信もついてきたタイミングで、夫と東京か福島か別の地方に移住するか、相談しました。
前から夫とは、いずれフリーになった時に、田舎でああいうことしたいね、こういうことしたいね、という話はしていたので、自然な流れでした。
最終的にいわきが一番知った土地だし、それに、地元近辺の街が新しく創られていく過程を近くで見るのも楽しいんじゃないかと思い、2017年5月にいわきに拠点を移しました。

実は今「3拠点化」というのを目指していて。「いわき」、夫の実家のある「東京」、そして「新島(伊豆諸島にある東京の島)」。

なぜ新島かというと、「日本仕事百貨」というWebマガジンのような求人サイトを読み物としてよく読んでいて、ある時「しごとを作る合宿」という企画の募集をしていたんです。その第一回の舞台が新島で、そこに参加したのがきっかけです。

いま地方に移住したい人が増えてますよね。でも移住したいけど、仕事がないから移住できない、という声も聞きます。この合宿では、「仕事を探すではなくて、仕事を作ればいいじゃない、それもちゃんと稼げる仕事を。ただし助成金をもらうという考えではなくて、きちんとお金を回せるような仕事を作る」というのを目的としていました。

それに参加したのが、福島に帰ろうと決めた後だったのもあって、得られるものがあるかもしれない、と思ったんです。3泊4日で8人ずつ3チームに分かれてそれぞれの与えられた新島の課題を解決するために考え、最終的にプレゼンするというもの。ちなみに、今でも形を変えながらでも続いているプロジェクトは、自分のチームのものだけなんです。

ただオープンマインドの新島にも、外の人が入れない部分もあって。これまでプロジェクトが立ち上がることがあっても、それが続かずフェードアウトするのを、村の人は何度も見てますから、当然かもしれないです。
どうすれば村の人に分かってもらえるか。そこで、島の人向けに広報誌を出したり、島の名物はこんなに素晴らしいものなんだ、ということを島の外向けにフリーペーパーを作ったりしました。
そういうのを島民のチームメンバーと組んで作って、私はデザインを担当させて頂きました。

また、このプロジェクトのゴールとして空き家の流通というのもあり、流通させるにはコミュニティスペースが必要だ、という結論に行き着きました。
空き家が流通しない原因は、まず村に不動産屋がないから、そして村の人は知ってる人じゃないと貸したくないから。そうすると、本当に移住したい人が来れないし、空き家はあるのに移住者の住む家はない、という状況ができてしまっていたんです。

空き家バンクというものはあるけれど、機能していないんです。なぜなら空き家バンクに登録出来るまでに、きれいに出来ないから。
代行するにも、家にプライベートな物があって他人に見られるのはいやでしょうし、だからといって自分で片付けるのはもっと大変だし、直さなきゃいけない所もたくさんあるし…多分こういう課題はどこも一緒なんだよね。
そこで、どんな場所にもなれるコミュニティスペースが必要だよね、という結論に合宿でなって。島の人も気軽に来れて、これから移住したい人も来て、お互いが交流できる場所にしようと。技術を持った人はワークショップや教室を開いてもいいし、カフェスペースもあるからお茶するだけでもいいし。

そういう風に広報していたら、島の人の中でどんどん認知度が上がっていって、応援してもらえるようになってきて。結果、場所を借りることができ、そこをコミュニティスペースとして使えるようになりました。

今は東京や福島とは違った感じで、新島で過ごす時間はリフレッシュにもなってます。コミュニティスペースで仕事も出来るし、私にとってはノマドの1ヶ所みたいな感じになってます。

富岡に対して、故郷として懐かしいという思いはあるけれど、自分は15年も地元を離れていて、その間の富岡を知らない。それに震災のあったその日に富岡にいて、転々と避難した大変さや苦労は、どうしても共有できないから、そういう部分で寄り添うこともできない。
今はいわきに拠点を移したけれど、いわきでも富岡でも、半分よそ者のような気持ちでいて。でもそれをポジティブに捉えています。だからこそ色んな人に会って、自分にしかできないアプローチができればいいなって。
ずっと外にいた者として、外と内を繋いだり、忘れないように外に働きかけるとか、そういうことが私の役割なんじゃないかと思ってます。

2017年11月取材
文/写真:渡辺可奈子