篠木しのき 弘ひろし さん | 葛尾村

篠木しのき ひろし さん | 葛尾村

葛尾村村長(2016年10月〜)

震災当初とJAふたば

震災当時はJAふたばの専務という立場でした。3.11当日は富岡町のJAふたば南部営農センターにいて、若い職員3人くらいで敷地内に咲いていた桜の剪定作業をしており、丁度休憩中に地震が起きた。建物内に居た職員たちがどんどん外に出てきて、パリパリと壁のレンガや街路灯が割れたりした状況だった。地震がおさまってからJAふたば本店があった大熊町に戻るのに、6号線が通れなかったので35号線(通称:山麓線)で戻りました。富岡町にあるJAは高台にあったので、後で職員は津波が押し寄せる光景を見ていたと聞いた。
本店に戻り、職員も家や家族が心配だろうと思い、とりあえず帰宅させたのち、自分も葛尾村の自宅に戻った。自宅はそんなに被害が無く大丈夫でであったが、浪江と小高から親戚が避難してきていた。

翌日からは葛尾、川内、津島各支所のJA職員や浪江町のJA職員が集まり、会議で津島に避難した8,000人くらいの食事の炊き出しの段取りをした。まず食べ物が無かったため、津島支所でそれらの対応にあたり、18俵の米を炊いたが2日で無くなった。JAふたばにも米の在庫がそんなになくて、14日にJA側で米の対応ができないかということで、全農の子会社で米を扱っている「パル(パルシステム)」に電話をして米を手配してもらい、伊達市保原町に米の在庫があるため15日に取りに行く予定でした。
しかし葛尾村も13日に全村避難となり、津島も危ないという話になり、少しでも遠くへ逃げなければと、津島に避難していた住民たちも二本松市針道地区に避難しました。手配した米はキャンセルし、当初は国から支援物資が来なかったし、外部から車も来なかったため、食品を集めるには当時JAしかないということで、頼りにされてましたね。
葛尾村の住民は13日に避難して、あづま総合運動公園で一晩過ごしたが、沿岸部からの被災者が押し寄せたので、とにかく寝るスペースもない。その後、会津坂下町川西公民館に移動したが、あづま総合運動公園に残った村民もいました。
自分は栃木県の弟宅を目指して、原町の兄など30名近くと一緒に避難し、14日朝に到着。翌15日には福島市にあるJA福島中央会で組合長会議があったが、ふたばの組合長が大熊町の人で、どこに避難したか分からなかったため、当時専務だった自分がその対応にあたった。
震災後の対応を話し合うための会議でしたが、中央会のビルも震災で壊れてしまい使えないため、とりあえず総合教育センターで行った。JAふたばだけで1万2,000人くらいの組合員がいたので、その後、安否確認対策として福島県、農林中央金庫、共済などから人材が派遣され、情報収集を手分けして行いました。
幸い職員で亡くなった人はいなかったが、4月からの新採用予定の人が5~6人いたのに、状況的に辞めていった人もいて、せっかく入社希望してくれたのにこういう形でダメになってしまい、残念でした。
JAふたば各支店は、県内と埼玉に計6か所の場所をお借りし、支店近くに避難していた職員たちを配置して、避難している組合員に対する保険(JA共済)の対応などをするため、事業を再開した。主に建物共済の地震保険などで、670億円くらい支払いました。実際には建物は調査しないと支払いができないのだが、避難指区域には原発事故で立入できないため、電話で共済の加入者に確認を取って半壊か全壊かを聞き取り、保険適応のための書類を作りました。区域再編後は、帰還困難区域は全壊扱いとなり、それ以外の地域に対しては職員が調査を行いました。原発事故当初、東電からの賠償は開始されておらず、着の身着のまま避難した契約者さんたちは資金などのめどがたたず、心配ごとが多かったのです。建物共済の内容には原発事故は想定されていませんでしたがすぐに行動を起こし、4月からは支払いが少しずつ始まり、5月、6月には本格的に保険の支払いが行われました。JAふたばでの役員活動は村長になるまで続けてました。 

JAから村長へ

自分では村長はやらないつもりでした。ただ、前村長の松本允秀氏が今度の10月末の選挙は立候補しないということで、直接前村長から出馬の打診があったほか、回りの人たちからも推薦されたんです。任期満了も迫っており、村の復興のためにも早く(村長を)決めたく協議はしていたが、なかなか決まらない。名乗り出た人も中にはいたけど、なかなか決まらなかった。そんな折、自分は全農倉庫の落成式で会津に行っていた時に、電話で新聞記者から連絡がきました。立候補者への説明会が実施されたのだが、震災後初の村長選ということで、マスコミなどからの注目も浴び、メディアも来ている中で自分の名前が出されたようです。迷った末、家内や息子、兄など身近な人に電話をかけ、みんなから「なんともしゃないんじゃないか(もうどうにもならないんじゃないか)」といわれて、もうやるしかないと腹をくくり、当日のうちに記者会見も開いて、その後当選となりました。 

実際村長になってみて

村長に就任して1年半以上が経過した。自分はルーズなほうだからそんな固いこと出来ないと思っていたが、まずは前村長がやってきた取り組みを継続して行い、村民の帰還や学校の再開準備などに取り組みました。村民との交流会や議会と話し合い、復興に向けて一歩一歩進んできたと考えています。
2017年度の事業内容としては、施設等の整備を行ったほか、畜産に対しては和牛の繁殖1頭に対し20万円の助成金を50万円に上げて再開を後押しをしたり、水田再開に対する助成なども行ってきた。営農を再開された村民はまだまだ少ないが、H30年度については約15町歩の田んぼで米作りがされている。
また、長引く避難生活の中で仮設住宅で生活するうちにストレスなどの原因で亡くなってしまった高齢者もいたことも踏まえ、高齢者の方が帰村されても体を動かし、健康な体を維持し、生きがいを感じてもらうためにパイプハウス栽培なら一年を通して野菜を作れるので、その設置の助成も行っている。パイプハウス事業についてはH29年度には71棟申請があり、H30年度も申請がたくさんあるので、村民からかなり利用していただけたと感じている。
沿道の草刈りなどの農地の維持管理するための予算はH30年度まで助成される予定だが、いつまでもおんぶにだっこで頼っていられないと考えていて、高齢で作業が出来ない方に関しては民間などに委託する形で村の景観を整備していきたいと思う。
現在、復興住宅に住んでいる方や村外に住宅を作った方の中には、葛尾に小さな家を作って(農地などを)管理したいと答えた方がいる。考え方は様々なので、村としても地元の人の意向を汲み取りながら今後の在り方について考えていきたいと思う。

復興拠点について

拠点整備の取り組みがH30年5月11日に確定したが、詳細について今後精査していく段階であり、復興拠点に選ばれた野行地区にある農業用用地の除染だけで96ヘクタールになるほか、住宅の除染もこれから。営農再開に向けた取り組みについても地域住民と話し合って詰めている。もともと野行地区は住民たちが独自で生産組合を作っており、国に申請するための話し合いはずっと続けられていて、今後の取り組みについても検討中である。野行地区の住民に帰村意向についてのアンケートを取った際、約半分ができれば戻りたいと回答された。
また、同地区にはH27年から汚染廃棄物を減容化させる仮設焼却施設が設置されており、環境省から3年間と期限が指定されていたH29年4月には一旦運転終了。しかしH30年5月より、また運転を再開しました。その理由は、田村市や三春町など、震災でお世話になった自治体や、川内村の除染廃棄物を国や県、環境省と話し合いを詰めた段階で、受け入れたいと考えていたからです。その点についても野行地区の住民の方々と何度か話し合いを行い、最終的には受け入れる形で理解していただいた。野行地区以外に住んでいる村民に向けた全体の説明会では各区長を集めて話し合いをし「お世話になった各市町村の復興の妨げにならないためにも、運転を再開しても良い。」と理解していただき、現在でも田村市を中心とした各町村から1日200トンの除染廃棄物を受け入れている。
今後そこで働きたいという村民の希望が有れば村の復興事業組合と各業者が話し合ってもらい、村民の就労につなげていければとも考えています。
さらに風力発電施設が6基ほど設置予定。野行地区から川内村にかけて70基ほど設置し、富岡町の変電所に電気を送る事業も計画中。野行地区には事業用設備が集中してしまったため、地域住民から理解を得るのは大変骨の折れる作業だった。

今後の双葉郡同士の連携について

考えていかないといけないことは山積みだと思うが、村ではH29年11月から村の診療所に田村医師会から医師を週2回派遣していただいており、生活圏が田村市を含む中通り側になっているのが現状。双葉郡全体の広域的問題は8町村全体として取り組むべきだと思うが、広野町や川内村は早いうちから復興に取り組み、帰町、帰村率も高い。楢葉町や富岡町、浪江町も着々と進捗しているし、葛尾もある程度復興が進んできたと感じているが、帰還困難区域を多く抱えている双葉町や大熊町はまだまだ復興からは程遠い状況であり、各町村で状況が全く違うのが現状。
双葉郡8町村が一緒になって取り組むという体制が整うのはまだまだこれからかもしれない。各町村に「今後どうしますか?」と問いかけたところで、まだまだ自分たちの町村のことで精いっぱいだと思う。しかし、いつまでも自分だけのことだけ考えていてはいけないと思うので、色々な面で連携、協力しながら今後について話し合っていきたい。

村の帰村人口は現段階で(H30年5月)約300人程度。将来的には人口900人と目標を立てているので、村民が就労するための工場誘致などにも力を入れていきたいと考えている。村はこれからが正念場だと思う。役場の職員たちには常に「しっかりとやらないと(村の)存亡の危機になる。それくらいの気持ちで自分たちが先頭に立ち、しっかりとした危機意識を持った中で対応しろ」と言っている。

H30年6月に、復興のシンボルとして復興交流館「あぜりあ」が開所した。施設では住民の交流活動を支援し、村民参加型の施設として活用していけたらと考えている。また、村外の方にも村の情報収集の場所として気軽に立ち寄っていただけたら嬉しい。交流館の資材に使われたのは、村内にあった築200年以上前に建てられた古民家の廃材が使用されている。村には新しい建物や施設がどんどん出来ているが、震災前の村の歴史もある程度残しておきたいし、語りついでいきたいと思う。それを伝えていくのも私の務めだ。

履歴/葛尾村立葛尾小、中学校→農業学校(県双葉経営伝習農場卒)
1987年(昭和62)年から葛尾村議会議員を4期務め、議会副議長や合併前のJAふたば組合長、JA福島さくら復興対策本部長などを経て、2016年11月12日村長就任。
2018年5月取材
編集=下枝浩徳