鯨岡くじらおか 秀子ひでこ さん | 広野町

鯨岡くじらおか 秀子ひでこ さん | 広野町

出身:広野町

支援に頼りすぎず、自立していく

震災の時は工業団地でタッチパネルの液晶を作る会社で働いていました。あの日グラグラっと揺れて机の下にもぐったんですけど、凄い揺れでしたのでこれはまずいとなって外に出ました。社員の人から「パートさんは帰っていいから」と言われ、そのまま作業服を着て家に向かいました。
 
国道は陥没していて通行することが出来なくて、裏道を通ってようやく家に辿り着きました。私の家は海の近くなんですが、あの時、津波が来るっていう感覚がそもそもなかったです。
土壁の建物は崩れていたし、家の中は地震でタンスが倒れて大変な状態でしたが何とか大丈夫でしたので、公民館に避難しました。でも、何も持ってないし、とても寒かったので、仕方がないからジャンバーやら何やら、とりあえず着るもの取りに行かなくちゃって思って家に向かっている時、津波が襲ってきて…。一本道で車に乗ってて、目の前にだーっと黒い水が襲ってきた時は、ハンドル握りながら「あれ何!!」っていう感じで、バックしなくちゃーって思って。無我夢中だったんでしょうね、その後どうやって戻ってきたかはよく覚えていなくて。
 
今(2018年時点)、防潮堤が出来てるけど、良し悪しだなって思います、私は津波が見えたから逃げられたけど、今はうちの2階から朝日が見えなくなっしまいました。海が見えないっていうのは津波も見えないってことでしょ、いざ津波が来たら本当に逃げようって思えるのかなって思うと、怖さもあります。

津波で家が流されて戻れなくなったので、その後、私の実家に家族と居ましたが、第一原発で事故が起きたので避難しろって言われて避難しました。当時、主人は役場の職員でしたので災害対応で戻ってこれず、(主人が)心配だったけど、とにかく南に逃げろって言われたから、親せきと一緒に8人で逃げました。
行くあてもなく、いわき市のスーパーの駐車場で一晩明かしました。翌朝、いわき市の小学校に避難し、体育館での暮らしはプライバシーもないし、いられないと思って出ようとしましたが、あの時ってガソリンが無かったでしょ、だから遠くに逃げることも出来なくて、埼玉の弟に連絡して迎えにきてもらいました。

埼玉に避難したらしたで、今度は父、母が都会の生活に馴染めないし、弟家族の家に長くもいられないから。その後、石川町の避難所にお世話になって。
石川町の体育館に避難した時は、本当に町の人達に親切にしてもらいました。みんなが布団を持ってきてくれたし、炊き出しも一生懸命してくれた。自分が逆の立場で知らない町の人が来たら、こんなに優しく出来るかなって思った。避難所生活は大変だったいう人がいるけど、私は石川町の人達との楽しかった思い出がいっぱいありました。

住み慣れた場所が、一番落ち着ける場所

石川町では半年くらいお世話になったかなぁ。このまま体育館での生活を続けるわけにもいかないなと思っていたし、主人と離ればなれの生活も続いていました。結婚してから一度も別々に暮らしたことがなかったから、一緒に住まなくちゃと思っていわき市にアパートを借りて、あの頃は自由に選べる状況じゃないから、2間のアパートを借りて家族5人で住みました。息子と娘は若いし、プライバシーが無いのは大変だしで、広野に戻ろうという事になりました。
でも家は津波で流されてしまったでしょ。普通なら取り壊して違う場所に住むんだけど、あの頃、旦那が定年まであと少しっていうところで震災・原発事故にあって、初めての経験ばかりで、体力的にも精神的にも辛かったんだよね。どんどん元気がなくなってしまって、津波で壊れた離れの家を直して住みたいって言ったのね。それで壊れた離れを直して住みました。
生まれ育った家に住むようになったら元気が出てきて、やっぱり自分のところに帰ってきた、それって違うな、環境って大切だなって思いました。

お店がないから帰れないと言う声があると思いますが、それは違うと私は思います。震災前も住民の方たちは、買い物はいわき市に行っていたと思います、いわき市に行けば一箇所の店舗で何でも揃うし、広野町では昔からちょっとした単品を買う。そんな暮らしだったから。

それぞれの特色を活かした町づくりを

今の復興を見ていると、震災後、宿舎やアパートが沢山建ったけど、大丈夫かな?後々まで使えるものが出来ているのかなって思う。また、被災地独特で、土日にお店が営業してないところが多いです、飲食店など。震災後、広野町は沢山の作業員が暮らす町になったけど、土日は自分達の自宅に帰ってしまう。お客が少ないからやらないというのは分かるけど、町のお店は誰のために開いているのかと考えると、町民というより作業員向けなのかなって思うことがある。
また、跡取りがいないってことがお店を続けられないと言う商店もあります。本当に高齢化が進んでいったらどうなるのかなぁ。そうなってくると年寄りだけで出来ることって、何なのだろうっと思うのです。
避難して親と離れるいい転機になってしまったのかな。こっちに住みなさい、戻りなさいとだけ言っても難しいですよね。若い人達が暮らしたいって思えなかったら。
だからどうしたらいいのって聞かれると分からないし、仕方がないと思うところもある。この7年間長かった、でも何が変わったの、何が進んできたのかなって。
広野町、楢葉町、富岡町が団結して、それぞれの町の特色を出してもらって、生活のこの部分はこの町で賄おうってなれるような形になるといいですよね。
 
私はこの地域っていろんな支援があるけど良し悪しだよなぁって思います。いつまでもあると思ってはいけないなって思うのです。支援に頼り過ぎると自立心がなくなってしまうし、震災前のようにはいかなくなると思います。

『ハッピーロードネット』の仕事で今はパソコンを使う仕事がほとんどです。震災前はパソコンなんて触ったことありませんでした。その頃はパソコンをやらなくても良かったんですけど、震災後に6号線に桜を植えるプロジェクトが始まってから、53歳ぐらいからパソコンが詳しい人たちに教えてもらいながら覚えました。覚えるしかない状況に震災で追い込まれたけど、これってチャレンジですよね。段々出来るようになってきて、新しいことが出来るようになるって面白いし視野が広がりました、自分で出来ることはやっていかないといけないと思いました。今は楽しく仕事しています。

2018年2月取材
文/写真:吉川 彰浩