坂本さかもと 勝利かつとし さん | 富岡町

坂本さかもと 勝利かつとし さん | 富岡町

畜産業
富岡町出身

牛に対する愛情と農業へのモチベーション

私はもともと山林の苗木屋なんですよ。元は明治36年ごろの創立で私で三代目なんですけどね、息子、孫はもうやらないと思います。
牛を飼い始まったのは自分の代で、だいたい60年くらい前ですね。昔は農作業っていうと馬と牛を使ってましたからね。本業は苗木屋なんですけど、もともと堆肥をとるために牛を飼ってて、それで40年くらい前に牛の繁殖も始めていきました。時代も機械の時代に変わってきたからね。それで経営を色々考えて繁殖肥育一環経営にしました。畜産振興というのも考えながら、それが一番安定しているということでやってきたんです。
以前、30年くらい前かな、私のところに県からの受託で種牡の肥育を10頭ばかりやっていたんですよ。それが結果、すごく評判が良くて、当時で470キロ、A-5のナンバーが10だったんです。それが県の種牛になったり、仙台の市場で屠殺した時の断面がね、県の種牛の広告に使われたりしてました。なのでそこをターゲットに、宮崎から安平という日本一の種牛を10頭入れて、とにかく母体が大事だからね、そこから繁殖肥育一環経営が始まったんです。残念ながらそこから7年くらいたったころ、震災になったんです。だからまさにこれからっていう時だったですね。

以前、私は議員もやっていたもんですから、畜産振興というところで実績を作って、実態を把握して進めていこうと思って、研究会を何人かで作ってやっていたんです。その中には順調にやっていた人もいましたが、こういう状況になっちゃったもんですから、やめちゃったけど。

震災の後は『原発事故被災動物と環境研究会』(上記とは別)という岩手大の岡田先生が中心にやっていた会に参加してたんですが、何年かやって今は外れてます。

私もいつまでも飼ってるわけではなく、ここも除染が始まれば、ハラをくくって牛を処分しなければならない。そういう決断をする時が来るんです。多分来年になるのかなと思ってますけど、町の方向性に従って対応していこうと思ってます。ここも特定復興再生拠点になって、農業再生地区として捉えられているようなので。具体的にはまだわかんないけど、農業を主体とした地域にするとは聞いています。

震災前は多い時で60頭くらい飼っていました。それで震災があって、4月22日の警戒区域になる時に、生きてる牛は全部放しました。それまではなかなか来れなくて、2週間に1回くらいだったかな。ほんとに心配で、中にはお産間近の牛もいたんですけど、来てみると生きていたんですよ。涙がでましたね。辛かったけど走っていって、残っている牛は綱を切って放してやったんです。本当にかわいそうでしたね。悲劇でした。それまでは藁から何からあるものは全部やってね、水もいっぱい流しておいたんだけど、水をくみあげるポンプを動かす発電機を盗まれちゃったんですよ。エサとして置いておいた肥料米も80俵も盗まれちゃって。色々ありましたね。

それから1年くらいかな、県の方でも放れ牛の囲い込みを始めて、そして殺処分が始まったんです。町もはじめは殺処分しない方向だったんですけど、国の方向性でね、せざるをえなかったんでしょう。でも私は同意しませんでした。富岡では同意しなかったのは私と松村(直人)くんのところに預けた半谷さんだけだったかな。あとは同意せざるをえなかったんでしょうね。なんで私は同意しなかったかっていうと、やっぱり今までの思い、牛に対する愛情があると同時に、避難後長い間何もしないのも良くないと思って、農業に対するモチベーションを維持するためというのが最初の思いでしたね。それで考えてやっているうちに、農地の保全とか結構良い面がでてきたんだよね。牛っていうのは草であればなんでも食べるんで、放牧するのは農地保全にもなるし、牛にとっては健康にも良いとわかりましたね。エサ代の節約にもなるしね。

震災後、放してから再び集めたのは21頭でした。帰ってこなかったのは他で死んだか殺処分されたかだと思います。それからエサやりに通うようになりました。今現在、牛は15頭残ってます。
4月22日に警戒区域になってからは、エサやりには(周りには)隠れて来てました。週に1回くらい。警察に遭っても事情話したら親切でしたね。

イノシシの被害はひどいもんですよ。多い時で一度に40何頭くらいいたかな、数えてみたら。友人にもらった米10俵をエサ用に小屋においておいたら、見つかったんだね。ガラス割られて入られて、全部食べられちゃった。たまたまNHKかどっかが取材きていた時だったので放送して、そうしたら国も本気出して捕獲始まったんですよ。それで一旦減ったんですけど、また増えてきましたね。最近また酷いんですよ。だんだん賢くなって檻には入んなくなってきた。

これから先、まず除染はやってもらうと。その前には安楽死させると。その後、ゆくゆくは経済動物として飼えるなら、5~6頭は飼ってみたいなと思ってます。繁殖としてね。できるかできないかはこれからの状況によりますけどね。もし、ここが避難指示解除となったら、私は帰りますよ。いずれにしても除染がどの程度なのか、国が農業として認めてくれるのか、私も80歳なのでそんな長くはできないんで、まずは農地の維持管理がスタートになるのかなと思っています。ただ、除染してすぐは以前のように牧草作って牛飼ってとはいかないのかなとは考えているんですけど。農業の再生に協力したいと思ってます。みんな帰ってこなかったらここはどうにもならないんじゃないかなと、私ぐらいはと思ってます。

2018年1月取材
文/写真:平山"two"勉

浪江町