八島やしま 貞之さだゆき さん | 浪江町

八島やしま 貞之さだゆき さん | 浪江町

株式会社八島総合サービス (旧八島鉄工所) 代表取締役

「なみえ焼そば」による町おこしに尽力

私は、祖父が1950年に創業した八島鉄工所の3代目社長です。大震災の翌年に南相馬で再出発しましたが、以前のような鉄骨工事の仕事はなかなか難しく、施設管理の仕事が主になってきたこともあり、2015年に「八島総合サービス」と社名を変更しました。でも、昔のお客様がいらっしゃるとお分かりにならないので、事務所入口には「八島鉄工所」の名前も残しているんですよ。

いまでは全国区となった「なみえ焼そば」ですが、それを使った浪江のPRを考え始めたのは、私が浪江町商工会の青年部長に就任した2007年のころです。ちょうど米国のサブプライムローン問題などが表面化した時期で、景気は最悪。大変なときに部長になってしまったなというのが本音でした。なんとか今までと違うことをして町を盛り上げなければと、皆でいろいろ研究していて発見したのが、B-1グランプリ*優勝で絶大な経済効果があったという富士宮市の「富士宮やきそば」でした。振り返ってみたら、浪江にも極太の中華麺を使った独特の焼そばがあるじゃないか!これで我々もB-1出場を目指そう!ということになり、2008年、まちおこし団体である「浪江焼麺太国(なみえやきそばたいこく)」を“建国”し、私が初代の「太王」(団体代表)に就任したのです。

*B-1グランプリ:ご当地グルメを通したまちおこしを目指す団体による共同PRイベント

2010年には念願のB-1グランプリ初出場を果たし、マスコミにも取り上げられるようになって、町民の皆さんも少しずつ「なみえ焼そば」を我が町のシンボルとして語ってくださるようになりました。それまでは、町民にとっては昔から食べ慣れた、ただの「焼そば」だったんですけどね(笑)

もっとも、私自身はこの活動で富士宮のように何百億円もの経済効果を生むのは難しいと思っていて、むしろ双葉郡の将来を担う若手が仲間をつくり、お互いをよく知る活動としてうまくいけばいいと考えていました。実際、そこで仲間としての絆が生まれたからこそ、震災後も避難先から何時間もかけて集まって焼そばを振る舞うなどの活動を続け、2011年以降もB-1グランプリに出場できたわけです。2013年大会では見事ゴールドグランプリ(優勝)を獲得し、みんなで「ふるさとが元の姿をとり戻すまでがんばろう」と励まし合いました。

▲2014年、福島県郡山市で開催されたB-1グランプリ開会式にて、前年のゴールドグランプリ浪江焼麺太国を代表し、大会会長へ「金の箸」を返還する太王(浪江町提供)

やってきたことは無駄にならない

その後、2017年3月末に町の一部で避難指示が解除されたタイミングで、私は「太王」の衣装を脱ぎました。浪江が完全に「元の姿」に戻ったとは言えないかもしれませんが、私の中ではひとつの区切りと考えてのことです。もともと40歳以下で構成される商工会青年部の活動として始まったもので、私はとっくに卒業している歳ですし、南相馬に会社を再建して以来いわきに暮らす家族とはずっと離れ離れ。なのに休みのたびに浪江焼麺太国の活動で地方遠征する日々が続き、家族にも負担をかけてきましたからね。

もちろん、太国の活動をしていたことで助けられたこともたくさんありました。大震災の直後、南相馬から飯舘村を経由して避難し、2日後の日曜日には親戚のいる塙町にたどり着いたのですが、そこで地元の商工会青年部の人たちが「あれ?浪江の太王さんじゃないですか?」って気づいてくれて。とりあえず入居することになったアパートに布団やテレビを持ってきてくれたり、日曜にも関わらずその日のうちに水道開栓してくれたり。本当に親切にしていただきました。その後、家族と別居して会社再建に苦闘する中、一人でアパートにいると不安で頭がおかしくなりそうだったときも、休日に太国の仲間と活動をするのが気晴らしになったことも事実です。

思い返せば、その浪江焼麺太国のアイデアも景気悪化による危機感がなかったら考え付いていなかったでしょうし、あのとき39歳で青年部長に就任していなかったら私が「太王」になることもなかった。そういう出来事が重なって今があり、これまでやってきたことは決して無駄にならないと思っています。

浪江焼麺太国では「なみえ焼そば」の成功に続いて、伝統工芸の大堀相馬焼や東北一大きい請戸川の鮭ヤナ場、アユ釣りの名所である高瀬川渓谷など、それまで気が付かなかったいろんな資源を発掘して交流人口を増やし、すごい観光地にしようというアイデアを考えていたんですよ。そうやって震災前に目指していた浪江町、きれいになっていろんな人が来てワイワイ賑わっている浪江町の姿を、いまもときどき夢に見ます。だから、諦めずにやっていきたいですね。会社の本社登記はいまでも浪江町権現堂にあり、移すつもりはありません。いまは難しくても、いずれ浪江に戻りたいと考えています。

2018年12月取材
文 ・写真=中川雅美

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