石井いしい 絹江きぬえ さん | 浪江町

石井いしい 絹江きぬえ さん | 浪江町

石井農園 代表
出身:浪江町

3月12日~15日:診療所ごと東和に避難するまで

東日本大震災が起きたときは、浪江町役場職員として津島診療所に勤務してました。震災翌日の12日早朝、(これから市街地の住民を津島地区へ避難させるという)連絡がきたとき、これはヤバいなと。とりあえずご飯炊いて、診療所にいって、そこから15日までは家に帰れませんでした。
診療時間は一応9時から16時ということになってましたが、とんでもない。薬をもらいに来る人が山のようにいて、もう国道114号にだーっと並んでいる状態。みんなすぐ家に戻れると思って、いつもの薬を持たずに出てきてるんです。保険証も財布も薬手帳もない。もう薬の名前も色もわからない。先生方3人態勢で、診療所内そこらじゅうにカルテおいて診察してもらいました。もう人がいっぱいで、先生たちは聴診器の音が聞こえないくらいでした。
そんな状態で、先生も看護師さんたちも食事する時間もないから、私が診療所から山越えて、炊き出しをしていた役場の津島支所へおにぎりを貰いに行って、先生や看護師さんたちに交代でご飯食べさせて、というのも私の仕事でした。
14日になって、たまたま風向きのせいだったのか、(津島の隣の)葛尾村の防災無線が聞こえたんです。避難しますよ、というような内容のが何回も、ピンポンパンと。あぁ葛尾も避難するのでは津島もどうなっちゃうのか、とそのとき思いました。そのうち知人たちが、もうおれたち避難するぞ、おれは会津に行くぞって言い始めた。大熊町は最初から会津でしたからね。それで、ここもまもなく避難するなと。
そして、15日の午前中に津島地区に避難していた住民の二本松市東和地区へのバス輸送が開始しました。午後には私たち診療所も避難するということで、14時に鍵を閉めたんです。それで、私も家へ帰って(同居していた)じいちゃんばあちゃんを避難させようとしたんだけど、がんとして動かないの。じいちゃん早くしないと、みんなここに居ないんだからと、言ってもだめ。でも(酪農家だった)うちの主人は牛を守るために残ると決めていて、その主人が強い口調で言ったんです。おめえら自分の身は自分で守れと。それでやっと2人は諦めて、私の車で避難することになりました。子供と孫は、前の日に郡山の親戚のところへ避難してたので、じいちゃんばあちゃんもそこへ連れて行くつもりで、とにかく車に乗せて家を出たんです。
ところが私は、キャッシュカードを診療所に忘れてきちゃったことに気が付いて。それで取りに帰ったら、そこに避難者を30人以上乗せたバス1台来てたの。その段階では避難せずに町場に残っていた人がまだいたから。浪江の人に限らず、残ってた人たちを(バスで強制的に回収して)津島診療所まで届けて、そこで二本松から迎えにくるバスを待ってもらうということでした。
そのバスの運転手がたまたま知り合いで、その人が言うには、絹江さん、俺はもう一度(町場の方へ住民を)乗せにいかなきゃなんねえから、迎えのバスが来るまで、ここにこの人たちをとどめておいてくれと。でも、もう先生も看護師もいないし、私はじいちゃんばあちゃんが車にいるし。どうしようかと思ったけれども、やっぱりそのままにはしておけなかったのね。何が何だかわからないまま乗せられてきた人たちでしょう。診療所のカギ開けて、待合室とトイレにストーブ炊いて、お菓子とか少し用意して、ここで待っていてくれと。
でも、彼らの迎えのバスというのがいつ来るかわからない。ばあちゃんは脚が悪くて歩けないから、私が郡山に連れていくしかないけど、じいちゃんは比較的元気だったんです。だから、じいちゃんだけでも助けなきゃなんないと思って、津島の公民館まで連れていって、(二本松から迎えに来る)町の大型バスに乗ってもらいました。申し訳ないけど先にいっててと。その間、ばあちゃんは、毛布にくるまって車の中にいてもらいました。ガソリンがなくなるからエンジンは止めてました。
夕方5時過ぎにやっと(診療所に)迎えのバスが来たので、(預かっていた人たちを)見送って診療所のカギを閉めて、さて郡山の親戚の家に行こうとしたら、いつも通ってる道がまったくわからないの。頭がパニックになって、何回も行ったことあるのに、全然わからなくなっちゃったのね。あっちこっち迷ってやっとの思いで郡山に着いたら、今度は保健施設かなんかに行って放射能の検査(スクリーニング)してから避難しろ、って言われたんです。列を誘導してる人に、あとどのくらいかかりますかねえって聞いたら、まだいっぱいだからちょっとじゃ済まないと。あんたどこから?と聞かれたので、浪江の津島と答えたら、大熊や双葉の人はどうしても(スクリーニングを)やらないといけないが、浪江なら行っていいと。そのときはまだだれも津島の放射線量が高いことを知りませんでしたから。あんた年寄り抱えていまから歩いて検査して、なんていったら大変だから、このまま行っていいと。そのかわり、家に入る前に服脱いで全部捨てろ、すぐに風呂入って頭洗え、と言ってくれました。
とにかく、そんなで郡山の親戚宅にたどり着いたのは、もう夜の10時過ぎだったと思います。本当に、15日はいちばん長い一日でした。

3月16日から震災翌年に定年するまで

私は翌朝から、(役場が避難した二本松市)東和地区に行かなきゃいけませんでした。現地の診療所に挨拶に行ったら、そこはもうすでに患者さんでいっぱいで、浪江の患者は受け入れられないということで、それでは自分たちで仮設の診療所を立ち上げなければと、即、決まったんです。
(役場がその一部を借りた二本松市役所の)東和支所にあったテーブル、機材からエプロンまで、使えるものは全部借りて、19日には「いきがいセンター」という施設に仮設診療所を開設しました。下駄箱をカルテ棚にして、待合室は玄関のコンクリの上に段ボールと毛布を敷いて座ってもらって。
そのときの私には、役場職員の健康を守るという立場の仕事もありました。それで、頭痛薬とか睡眠薬とかがあれば少しは助かるだろうと思って、16日だったか17日だったか、津島診療所に一度取りに帰ることにしたんです。でもそれもガソリンがなくて大変だったの。津島の家には買い置きのガソリンがあります。牛の世話をするためそこに主人が残っていましたから、そこまで行けば大丈夫だと思って、たまたま来た車にすいませんといって乗せてもらって行ったんです。そうやって診療所に戻って、最初は睡眠薬と頭痛薬くらいのつもりだったのが、もう薬も注射器も持てるものは全部持っていこうとなって、段ボール箱を組み立てて、もう無意識に必死で詰めました。
東和には4月中旬までいましたが、その間、お風呂を積んだ自衛隊の大きなトラックがきてくれて、すごく助かりました。町民がお風呂に入った後に職員も入ることができて、結局2回くらい入ったかな。お風呂がないのは本当に大変で、やはり温泉施設のあるところに避難しようということになって、県内各地の温泉施設に割り振って職員みんなで町民を輸送しました。会津のほうまで含めて手配したんです。でもやはり(東和から近い)岳温泉がいちばん多かったので、診療所もそこに移り、大きな旅館の広間に設置させてもらいました。
そのころから各地に仮設住宅の建設が始まり、診療所をどこに設けるかで何か所も見て回りました。結局、二本松の安達運動場にできる仮設の敷地の片隅を借りることになり、9月に仮設津島診療所が開所しました。そこで私は、平成24(2012)年4月に定年退職を迎えました。

【参考:浪江町役場の詳しい避難の状況は、町発行の「浪江町震災記録誌~あの日からの記憶~」第1章「3月11日以降の主な出来事」 https://www.town.namie.fukushima.jp/uploaded/attachment/8397.pdf
をご覧ください。】

家族のこと、自宅のこと

私は町職員としてとにかく町民を守らなければならないから、家族は二の次でした。家族だって大変な目に合っているんだけど、それは(本人たちや他の家族に)任せきりになってしまいました。
主人は(守っていた牛たちを殺処分により見送ったあと)、6月には津島から桑折町の仮設住宅へひとりで避難。じいちゃんばあちゃんは、東和から裏磐梯のペンションに避難した後、安達の仮設住宅へ。郡山へ逃れた子供たち家族は、そこも危ないということで知り合いを頼って新潟へ。そして私は、(職員は仮設住宅には入れなかったので)本宮市にある雇用促進住宅に入居。以前は8人家族でわーわーやっていたのが4か所に分かれてしまいました。避難開始するとき、主人は「自分の身は自分で守れ」と言い、みんな家族はそのとおりにしたんです。
じいちゃんは裏磐梯に移った頃からまいっちゃってね。震災から2年後に亡くなりました。草一本ないくらい家のまわりをきれーいにしてくれてたじいちゃんだったんです。でももう孫たちとかけっこできないし、草むしりもできなくなった。だけど、おら浪江にいって死にたいんだよなと言ってました。最初の頃(2013年春に区域再編して津島が帰還困難区域に指定される前)は津島には自由に入れたので、休みのたびにじいちゃん連れて帰ってました。
帰るたびに片付けて、掃除して、冷蔵庫の物も捨てて。でも、次にいくと前と同じようにがちゃがちゃになってました。一度は玄関両脇のガラスが壊されて、2階の階段まで泥だらけになってた。イノシシかなんかでしょう。農家だからコメとか小豆とか家の中に置いてあったので、一か所割られたら終わりなんだよね。片付けても片付けても、次に行くといっしょ。10回くらい行ったら、もうやめました。見るのも無残だし、もう諦めっぺって。今ではもう見に行く気もしません。

紙芝居で伝える

【石井さんは、上記のような診療所の避難のエピソード、酪農家のご主人とともに飼っていた牛を殺処分しなければならなかった話などを紙芝居にして、各地で上演しています】

私はいま、浪江まち物語つたえ隊の5人のメンバーの一人として、震災と原発事故避難についての話を紙芝居で伝える活動をしています。つたえ隊の紙芝居レパートリーは、地域に伝わる昔話も含めて何本もありますが、私がやるのは主に、診療所の避難の話「ひげ先生奮闘記」と、酪農家の話「乳牛ものがたり」です。どれも実話をベースにしたお芝居です。いまは特に酪農家に関する話をしてくれないかという要望が多いですね。
なぜ紙芝居にするかというと、やっぱり震災のときのことは、実際にあったことを(そのとおりに自分の言葉で)しゃべるのは辛いでしょう。私自身も、牛を殺処分したときの話をするのはまだ辛いんです。だから紙芝居にしたの。
もうひとつ、いま「町役場職員物語」というのを作ってます。あの混乱の中で、職員自身がもう目いっぱいになっていました。たとえば、あのとき、山道を運転中にもうこのままハンドルを握らずまっすぐカーブに突っ込もうか・・・と思ったという職員がいた。そういうエピソードも入れたお話です。誰と特定できないようにしたり、仮名仮称を使うこともあります。でも、浪江町に限らず、被災地の行政職員の苦悩や葛藤はみんな同じはずだから、それをちゃんと思い起こして伝えていかなければいけないと思っています。

【参考:浪江まち物語つたえ隊のホームページ http://matimonogatari.iinaa.net/eotoshibai/about/

福島市と浪江で営農を再開

私が退職して、もう一度家族で集まって暮らせる家を探そうということになり、福島市内に古い大きな家を買いました。でも、じいちゃんは亡くなり、ばあちゃんは若い者の世話になりたくないから老人ホームに入るというし、子供たち家族も孫の学校などの理由で同居はしないことになり、結局私たち夫婦だけで暮らしています。
福島市内に農地を買って農業を始めたのは、平成27(2015)年のことです。でもそのときは、大規模にやるなんて全然考えてませんでした。その前年に、避難生活中に痛めた右膝に人工関節を入れる手術に踏み切って、身体障害者手帳をもらう身になっちゃってたし、家庭菜園をちょこっとだけやればいいって思ってたの。
そもそもなんで農業やろうと思ったかというと、主人が仮設暮らしでまいっちゃったのね。津島の山の中で大家族で暮らしていたのが、いきなり町中の狭い仮設に一人で移ったから。おれはもうダメだわみたいになって、もう自分の死を覚悟しちゃった。じゃあ私と一緒に農業をやろうと言ったの。私、エゴマ作りてえんだ、それに、ばあちゃんが作ってたかぼちゃ饅頭を浪江の人のために作りてえんだ、って言ったら主人が、じゃやったらいいべって。もう、すぐに数か所の小さな農地を探してきてくれて、加工場を建てるための土地も入手しました。
加工場を作って仲間を集めて、ここで何ができるだろうなんて話しているうちに、やりたいことがいっぱい出てきちゃったんです(笑)。ばあちゃんに作り方を教わったかぼちゃ饅頭の他に、以前から好きで作っていたジャムも作りたい。エゴマに関しては主人の知人が搾油のオペレーターを引き受けてくれました。エゴマ油からいろんなものが作れるのは分かっていましたから、じゃあ趣味ではなく本格的にやってみようかと、夫と共に石井農園を立ち上げたんです。それで、官民合同チーム(国による事業者支援)に相談して、商品開発や販路開拓の相談に乗ってもらいました。ジャムの商品化はどこにでもあるからみんなにやめとけと言われましたが、官民合同チームは、それなら売れるジャムを作りましょうといってくれて、素材を食べるジャムの開発を指導してもらい、1年間通して商品を作れる体制も整えました。今ではリンゴ、梅、桃、プラム、いちじく、甘柿を使ったジャムを2種類ずつ。それからエゴマ油、エゴマドレッシング、エゴマのラー油、トマトドレッシング。もちろんかぼちゃ饅頭、味おこわ、柏餅も作って販売しています。

浪江町で営農を再開したのも、ちょうど同じ平成27(2015)年です。浪江でもエゴマ作りたいなら、うちの土地貸すから作ったらいいべ、と言ってくれた浪江の仲間がいて、まず2反部を借りてエゴマの作付けをしました。それが翌年には他も合わせて1町歩(1ヘクタール)になり、3年目の今年(2018年)は2町歩まで増えました。石井農園も本格的に動き出して、「浪江にまた、またエゴマの花を咲かせよう」ということでやっています。*

【*石井さんは役場職員時代に農産品の振興にも携わり、健康に良いとされるエゴマ(別名じゅうねん=食べると十年長生きするという意味)の栽培を町に広める取組みを先導したことがありました】

これからのこと

石井農園は、後継者を育成してから農業生産法人にしたいと考えています。7人いる孫のうち、2人がやりたいといってくれているけれど、まだ中学生と高校生だからわからないよね。友達に左右されたりするでしょう。でも、かぼちゃ饅頭だけは、ばあちゃんから引き継いだ私が2代目だとしたら、孫たちに3代4代と受け継いでいきたいなと思っています。

私はあと10年はがんばるつもりです。人工関節が入っている膝は、曲げられないので正座できません。しゃがむのもダメ。ところがね、草を刈ったりむしったりする農作業は大丈夫なの、どういうわけだか(笑)。やってると忘れちゃうんですね。私たちは浪江をまたエゴマの里にしたい。エゴマの栽培は比較的手がかからないんです。体力がない人でもできる。人生100年時代ですから、これからは車椅子対応の農園なんかも作りたいと考えています。
ゆくゆくは浪江にも加工場を作りたいし、私は町に戻って住みたいと思っています。でも、ばあちゃんもいるし、なかなか踏み切れませんね。主人は津島には未練あるけど浪江に未練ないって。変わってるのよ(笑)。
でも私にとっての原動力は主人です。主人がいつも背中を押してくれましたから。(酪農家の苦悩を描いた)紙芝居をやりに行くと、どうしてもっと(国や東電などに対する)怒りの話をしないのか、と言われることもあります。でも(あんな思いをした)主人自身、怒っていても何も進まないと。だから私にも怒りはありません。過去のことはどうしようもない。それより、これからどうしたら人が住みたいと思うような浪江町になるか、それを考えた方が良いでしょう。私たちには滅入っている暇なんてないんです。

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石井農園
福島県浪江町加倉
電話:080-1801-6751
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2018年9月取材
文/写真:中川雅美

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