寺崎秀一さん | JR常磐線元富岡駅駅長

寺崎秀一さん | JR常磐線元富岡駅駅長

元JR東日本常磐線富岡駅駅長、浜通り交通株式会社業務部顧問

「経歴」

私は昭和53年4月国鉄(現JR)に入社し、内郷駅と旧平駅の間にあったいわき貨物駅に配属されました。当時は運転業務の貨車を組換える入換作業に従事していました。鉄道の運転というと運転士とか車掌というイメージがあると思うんですけど、国鉄時代は各駅に運転担当(信号・操車)がいて、転轍機(*1)をかえす、テコを倒して信号機を現示するそういう仕事でした。今は駅で信号を取り扱う業務はだいぶ少なくなってきましたが。その後、泉駅や水戸駅を経て駅長として富岡駅にきたのは平成21年です。3年目に東日本大震災ということになります。

震災後、仕事に復帰したのは、まず3/15日からいわき地区指導センターに詰め、富岡駅長兼いわき地区指導センター副所長として8ヶ月、その後水戸駅の副駅長として従事。60歳の定年1ヶ月くらい前には、JR水戸支社営業部企画課に転勤、そこで5年間延長して退職しました。国鉄、JR通して通算42年間働いていたことになります。

「富岡駅勤務の頃」

富岡にいた当時は地元の富岡の方に声をかけて頂いて、皆さんと仲良くさせていただきました。列車を利用した旅行の勧誘などであちこち声をかけているうちに、皆んな顔馴染みになっていったんです。そうして色々繋がりができて、一年に数回は私も皆さんと一緒に旅行にいったりしてました。今でも親しくさせていただいてる方もいます。

「ダイヤ改正の前日」

2011年3月は12日がダイヤ改正の予定だったんです。木戸駅から夜ノ森駅までは富岡駅の管理だったので、11日は時刻表の貼り替え等、ダイヤ改正の準備作業をしてました。ダイヤ改正によりお客さまにご迷惑をお掛けしないように、無事にダイヤ移行できるかの確認をするんです。その準備作業をしている矢先の14:46に大きな地震がきました。

壁が崩れたり、ホーム側の窓枠が外れちゃったり、機器が倒れたり、蛍光灯がぶら下がったり、ものすごい揺れでした。その時は他に社員が2人いたんですけど、富岡駅は2~3ヶ月前から事務室の改良工事をやっていて、神棚も新しくして頂いたんです。場所が自分の机の後ろで、榊とか飾ってあったんですけど、地震が起きた時にとっさに取った行動は「神様が落ちてきたら大変だ!」と神棚の下で構えていたんです。そしたら他の社員が大きな声で「何やってんだ!」「そんなことやってる場合じゃない早く外に出ろ!」といわれて、外に避難ました。後から思うと、すぐ自分の身を守る行動ができなかったことは深く反省してます。

「地震、そして津波」

地震の時は15:01(下り)の普通電車の前で、待合室には数人、線路越しの上りホームの待合室には外国のお客が2人いました。地震でみんな外に避難した時に、待合室にいた2人が「わーっ!」って叫んでたんです。それで社員が2人行って、大きなスーツケースを運んで駅前広場に避難させました。ある程度地震がおさまってくると片付けに入り、また余震がきて外に出ての繰り返しでしたね。明日のダイヤ改正は、これではたぶん運行できないだろうと、一旦駅の鍵を閉めましたが、実際は窓枠が外れてたので出入り自由な状態でした。その時点で全てのインフラが落ちたため、どことも連絡や情報が取れなくなっていたんです。

それでとりあえず現金は全部金庫に収めて、まずは避難所(富岡一小)に行こうかと考えてたところ(15:27分頃)、警官2人が乗ったパトカーが津波情報を広報しながら、避難勧告か避難指示かは覚えていませんが駅前広場から南の方に行ったんです。まさか駅までは絶対に津波は来ないだろうとは思いつつ、津波の事を少し意識しました。南側の踏切から海の方に行ったあの警官たちのその後の事は、後日聞きました。(パトカーは津波にのまれ、1人が亡くなり、1人は未だ行方不明)。

そうこうしてると、どこかのお爺さんが孫らしい子を連れて、売店で買い物をすると来たんです。危ないから駄目と言っても聞かなくて、売店の店員さんを無理やり連れていったので、何でこんな時に!とその時は腹がたったんですけど、仕方ないから自分も一緒に待合室に入り、改札口で売店と海の方を交互に見ながら待ってたんです。

そして警察官による津波情報から約7分後の15時34分頃、改札口から海の方を見たら、海沿いにある農家の方の大きな屋敷のはるか上に、波飛沫がドーンとあがったのが見えたんです。これは絶対にここまで来るぞ!と直観して、その時スマトラ島沖地震のすごいスピードの津波の映像が頭に浮かび、売店にいた3人に「津波が来たぞ!逃げろー!」と叫んで外にでました。駅前広場にいた人たちにも「逃げろー!」て言って、サンライズホテル(*1)の方に皆で真っ直ぐ走って行ったんです。あそこが高台という意識はなくて、只々真っ直ぐ走ってました。途中で後ろを振り返ったら、富岡駅の赤い屋根がバシャーン!て流されて、これは悪夢を見てるのかと思いました。それからサンライズの丘に上がって様子を見てると、第二波か三波かわからないですけど、沖の方でかなり上の方から真っ黒い波が上がってきたのが見えたんです。富岡川の方から田んぼまで全部水浸しになり、まるで戦争映画を見てるようでした。

「避難所から川内へ」

とりあえず避難所に行こうと、サンライズから6号国道の方を回って、富岡一小に避難したら、子ども達が何人か残ってて、余震が来るたびに机の下にもぐったりしてました。その時ぐるぐる回して発電するラジオを生徒がもってたので、津波警報がまだ解除されないとか、色々情報を聞いてはいました。その後役場の人が来て、ここも危ないってことで避難所だった「学びの森」(*3)に乗せていってくれたんです。ここには沢山の町の方が避難していました。

「学びの森」には町の災害対策本部があって、対策本部長である当時の故・遠藤町長が寄ってきて「寺崎さん!駅はどうした!?」「流されました。」「そうかぁ…残念だな。」というやりとりがありました。その時点で自分の家が津波で流されてるのはわかってた筈なのに、それについては何も語らなかったんです。

「学びの森」では公衆電話が繋がっていて、ずらーっと順番待ちしてました(当時携帯は全て繋がらなかった)。自分の番が来て会社に電話しても繋がらなくて、後ろにはずらっと並んでるので、二、三回かけダメだったらまた後ろに並んで、その繰り返しでやっとつながり、今、ここにいるという安否報告を会社と家の方にしました。

その3/11の夜、災害対策本部が騒がしくなってて何事だろうって思ってると、タイベックスーツを着てる人が何人かいて、ここも危ないから避難しなきゃいけないとか、原発が危ないとか、バスの手配がどうこうとか、これは大変なことになってきたなと実感しました。「学びの森」にいた時はインフラが止まってたのでもの凄く寒くて、知り合いのおばあちゃんが、ジャンバー貸すよっていってくれましたが、自分だけ借りるのも悪いから気持ちだけもらったことを思い出します。

学びの森に設定された富岡町災害対策本部

次の日(3/12)どうしても駅が見たかったので、避難する前に社員とふたりで駅まで歩いていきました。途中ぐしゃぐしゃで水浸しのところを駅の前まできて、金庫はどこに行ったんだろうと、見まわしましたが瓦礫まみれでどこにあるのかわからず、何もできませんでしたが、写真だけは撮ってきました。

再び学びの森に戻って、私たちは着の身着のまま制服のままで最後のバスに乗り、川内村に向かいました。川内に着いて、まずかわうちの湯(*4)に行ったら、避難してきた人でぎゅうぎゅうだったんで、一番奥の隅っこの方で一晩すごしたんです。そこでも緊急地震速報が何度もなって、不安でいっぱいの状況でした。ここでは広い座敷に町民の方が沢山いて、現在の状況を職員が説明してたんですけど、「いつ帰れんだ!」とか罵声あびせられたりして、職員でさえ何もわからないのに可哀想でしたね。

それからなんとか家に戻ろうと、知り合いに車を貸してもらい、6国は通れなくなってると聞いたんで、小川に抜ける道からなんとか13日の夜には家にたどり着くことができたんです。それで借りた車を返すのに車2台で川内に戻ったんですが、いわき市内はどこもガソリンが入れられなくて、仕方なく後で払うからと謝って返しました。

川内村中学校3/13

かわうちの湯から近い川内中学校避難所の様子

「後になって思うこと」

あの時は津波と聞いて、2010年2月にあったチリ地震の時を思い出しました。当時は津波が来るということで、電車を全て止めていたんです。丸一日くらい警報が解除されなくて、お客さんに「津波なんてくるわけねえだろう!」って何回も叱られながら対応したんですけど、結局、仙台港あたりで90cmくらいだったのかな。その程度の頭があったんで、まさか自分の身に降りかかってくるとは、津波が駅までは届くとは思えなかった。そういうところ(情報をないがしろにしていた)も大きな反省材料です。

そして後になって思う事があって、一つは避難誘導していたパトカーの2人の警官のことです。後日1人は亡くなって1人は行方不明というの聞いて、あの警告がなかったら今頃どうしてたかなと。JRは踏切事故や人身事故とかがあった時に処理をしてもらったりする事もあり、年に何回か警察と交流会みたいなのがあるんです。その時に双葉署の2人の警官のおかげで、自分たちの命はあるんですという話をさせていただいて、感謝の気持ちを伝えました。

もう一つは、あの時は売店に行ったお爺ちゃんにムカついてたんですけど、もしあの人が買い物に来なかったら、海の方は見てなかったと思うんです。ですので津波に気付くのが遅れて自分たちの命はなかったんじゃないかと。あのお爺さんは私たちを助けに来てくれたんだと思うようになりました。

震災後、水戸駅で震災の時の体験談を話す期待があったんです(社内)。あの時は話ししてるうちに、途中で声が出なくなってポロポロ涙が出てきてしまいました。あの2人の警官がいなかったらとか、避難した事とか、当時の記憶が思い切り蘇ってきて、泣いてしまったんです。その後もJRの社内で語り部のような形で年に数回お話しする機会があったんですけど、何回か人前で話す機会を重ねるうちに大丈夫になってきました。慣れてきたんでしょうねえ。社内では常磐線は海のそばを走ってるので、業務中に災害にあう可能性はあるんだよと、防災訓練の大切さや自分の反省、教訓も含めてお話させていただいてました。

避難誘導中に津波に巻き込まれたパトカー

「震災後と富岡」

地震が発生した翌日の3/12に駅を見た後、しばらく富岡町には行ってなかったんですが、2年くらいたって夜ノ森の桜咲く時期に行った記憶があります。以前は祭りやよさこいで賑わってたのに、人っ子ひとりいなくて、寂しく感じましたね。

水戸支社で5年間復旧復興業務にも関わることができたので、竜田―富岡間が再開した時(2017.10.21)は嬉しかったですね。再開の前の日に富岡ホテルに企画課10人くらいで泊まって、開通の準備をやりました。

「2020.3.14 JR常磐線全線開通」

あの当時、駅や線路がメチャメチャになってしまったのを目の当たりにし、もう二度と列車は走れなくなってしまうのではないかと思っていました。後になって「常磐線全線開通2020年春」という報道がされたときも絶対に無理なのではないかと正直思っていました。

しかし徐々に線路が繋がり、最後に残ったのが富岡駅~浪江駅間の不通区間です。この区間は橋梁の橋桁が倒壊したり線量が高かったりで、復旧には困難を要したと思います。除染作業と復旧作業に携わった関係者の皆さまには大変な御苦労があったと察します。震災から9年が経過し、いよいよ開通したあの日、列車が到着するたびに地域の皆さまの笑顔を見ることができ私も本当に嬉しかったです。やっと地域の復興がスタート台に立ったというような、何とも言いようのない思いで胸がいっぱいになりました。これまでの間ずっと胸につまっていたものが少しずつ消えていくような感覚でした。でも、ゴールはまだまだ遠くにあることを忘れずに、その先にある未来を地域の皆さんの力を結集することでゴールが近づいてくるのではないかと思っています。私も微力ながらその一助に加担できればと思います。

2017年10月21日 竜田ー富岡間運行再開

2020年3月14日 常磐線全線再開

「双葉郡について」

震災前、いやそれ以上の姿に戻って欲しいです。あとは地域の住民が戻ってくるためには何かを仕掛けていかないと、このままでは先行き不安があります。人が集まれるような、来れるような、住めるような条件の整備が必要だと思います。

あちこちに避難してる方が、戻ってきて欲しいというのはあります。でも高齢者世代は戻りたいと思うんでしょうけど、子供育て世代になってくると中々難しいんでしょうね。当時の子ども達には、ここが自分たちの生まれた故郷だという事を大事にしていただいて、ここで何が出来るのかを自分たちで見つけてやっていく、というのを期待しています。

10年前の震災を風化させないというのも、自分たちの役割だと思うんです。それを伝えながら子供たちにバトンタッチしていくようなしくみを作っていただきたいですね。(2021年2月取材)

寺崎秀一さん 1954.12.28生 いわき市内郷出身

(*1)転轍機(てんてつき) 列車の通り道を切り替える装置

(*2)サンライズとみおか 駅前の丘の上にあるホテル

(*3)学びの森 富岡町文化交流センター学びの森

(*4)かわうちの湯 川内村の温泉施設