鈴木すずき 久友ひさとも さん | 大熊町

鈴木すずき 久友ひさとも さん | 大熊町

元じじい部隊リーダー

今はやり切ったという気持ちでいっぱい。今後は町の行く末を見守っていきたい

私は2019年3月末をもって活動を終えた「じじい部隊」のリーダーを務めていました。
「じじい部隊」が活動を始めたのは2013年4月のことです。前年12月に大熊町は3つの区域に編成され、帰還困難区域外の一時立ち入りが自由になったのですが、ライフライン等が不十分な中一時帰宅した住民に何かあったら大変だという思いから、仲間6人で立ち上げたのが「じじい部隊」です。
活動内容は大熊町内の草刈りと、火事になった際の水利を確保するための見回りをし、水が詰まってしまったところの清掃をすることがメインでしたが、一時帰宅された町民から受けた除草や倒木撤去の依頼など、町内で起こることは全て引き受け、様々な雑務も毎日こなしていました。当時は大熊町に入ってくれる業者も居ませんでしたからね。全て自分たちでやるしかなかったんですよ。

震災当時、私は大熊町役場の総務課長を務めていました。地震発生後すぐ災害対策本部を立ち上げ、まず災害対応、その後は津波対応にあたり、町民の安否確認などを行いました。大熊町への避難指示が出されたのは12日の早朝6時。茨城交通さんからバスを手配していただけたこともあり、一時間後には町民の皆さんがスムーズに移動を開始することができました。
とにかく西へ避難しろとの指示を受け、最初は田村市都路町に移動したのですが、夕方には同所も避難指示が出されたため再避難することになり、田村市船引町や小野町、郡山市などに分散して避難することとなりました。

大熊町は会津若松市に拠点を置くことに決まったのですが、その理由が長い避難生活の中で体調を崩される方が増え、医療機関がしっかりしており、かつ自分たちで小中学校が開設できる場所を確保できたのが同市だったためです。3月23日に議会が開かれ、4月5日に役場機能を移転し、16日に幼稚園と小中学校を再開することができました。

退職を期に開始した「じじい部隊」の活動

退職祝いに次男さんからプレゼントされた自宅のジオラマ。
自宅や庭木の位置、形まで忠実に再現されている。

震災当時自宅には父母と妻、次男が生活しており、震災後は長男が暮らしていた郡山市に身を寄せました。私は会津若松で単身赴任を続け、2013年3月31日に定年退職を迎えました。
退職時、次男が自宅のジオラマをお祝いにとプレゼントしてくれました。家の外観や庭木までそのまま再現されたジオラマのプレゼントは本当に嬉しかったです。

退職と同時に家族のいる郡山市へ戻り、翌4月1日から「じじい部隊」としての活動を開始しました。町の臨時職員として結成された「じじい部隊」のメンバーは、もともと役場職員が主なんですね。それぞれが主要なポストに就いており、定年後も役場に残って欲しいという要望も有りました。しかし、復興までまだまだ時間がかかるのに、我々が残ることで新人が育たないし、高線量地域に若者を配置させたくないと考え、これからのことは若い人たちに任せ、自分たちは違う形でお手伝いしようと、大熊町に現地事務所を作り、町民のケアにあたりました。
若い人には負けないくらい体力には自信があっても、60を超えるメンバーばかり。肉体作業が多い活動だけに、無理せず、安全最優先で、ペースを落としてゆっくり活動しようという戒めの意味も込めて「じじい部隊」という名前にしたんです。

大熊町へはいわき市や郡山市など、それぞれの避難先から通勤しました。(町内で)事故の多い時間帯から待機していたため、7時半には業務を開始し、16時まで作業してから帰りました。私は郡山市から国道288号線を通って通勤したのですが、当時は至る所にバリケードが張られ、道路を走るのはほぼ自分だけ。そんな状況で車がパンクした日には、どうすることもできないな、なんて考えながら通いましたね。そして、防犯灯すらついていない、長年生活してきた地域の変わり果てた姿に、寂しさも感じました。
臨時職員のため、本来なら土日祝日は休みとなるのですが、一時帰宅される町民が多いのは土日祝日なんです。そのため、月2回の大きい仕事をこなす日は全員で集まり、その他をローテーションで回しながら年中無休で仕事をしました。
2019年3月31日、同年5月に新庁舎で町役場の業務が開始されるため、同部隊も解散することとなりました。解散したときは「ようやく辞められた」という思いが強かったですね。引き際は役場が町に戻ってきたタイミングで、とメンバーで話していたんですよ。
ここまで頑張れたのは、6人全員が町民のために、自分たちがやるしかないっていう気持ちで取り組んできたからです。6人が同じ思い、同じ方向を向いていたからこそ、続けられたと思っています。忙しい日々でしたが、やり残したことは無く、充実した6年間でした。

郡山市で生活していくと決断したこと

自宅前にて愛車と共に撮影した一枚

5年前、私たち夫婦は郡山市に自宅を建て、現在は父と妻の3人で生活しています。
妻と私は、両親も含め80歳を超えた6人の親類を震災前から世話していたんですね。自分たちが郡山に拠点を置いた際、親類も自分たちを頼って市内に引っ越してきました。また、日中は息子夫婦の子どもたちも預かったりしています。そのため、郡山市に身を置こととなりました。市内の自宅は利便性も良く、住みやすいですが、それでも故郷は大熊町であるという気持ちが強く、落ち着いたつもりでいても、どこか心もとない気持ちになってしまいます。
大熊町へは震災後も妻と二人で何度も一時帰宅し、崩れてしまった屋根瓦を修理したり、庭木の手入れを行いました。もう帰れないとは分かりつつ、長年住み続けた愛着のある自宅のみすぼらしい姿を見たくなかったためです。
震災当日まで過ごした自宅は第一原子力発電所から300mの場所に有り、今後は中間貯蔵施設になる予定です。しかし私は、国との用地交渉に応じていません。大熊町は同施設を引き受けたのだから、町の除染が優先されるべきだと私は考えているんです。確かに復興再生拠点を中心とした一部地域は除染が開始されました。しかし、町内全域の除染計画はまだ立っていないんです。そんな状態で他町村から除染された土壌が運び込まれることが許せないんです。このスタンスは崩すつもりはありません。

大熊町は町内の災害公営住宅も埋まり、徐々に人口が増えてきました。本当に喜ばしいことだと思っています。まずは人が戻ってくれないことには町は成り立たないですからね。復興再生拠点が解除になったとき、私も小さいながら家を建てられたらな、とも考えています。
自宅は兼業農家で、コメや野菜を作っていました。震災前、定年後は「じじい部隊」で一緒に頑張ってくれた友人たちと共に独自の組合を立ち上げて、野菜を販売できたらな、なんて話も有ったんですよね。それが全て叶わぬ夢となってしまったことは、正直とても残念ですが、仕方のないことだとも割り切っています。しかし、私たち夫婦はお互い大熊町出身ということもあり、大熊町が大好きなんです。故郷と言えば大熊。だからこそ、大熊町の行く末が気になるし、どんなふうに復興していくか、今後も見届けていきたいと思っています。

2019年7月取材
編集・写真:S/T

浪江町