井坂晶さん | 富岡町

井坂晶さん | 富岡町

富岡中央医院院長、前双葉郡医師会会長
略歴/昭和15年5月8日生 仙台出身―岩手医科大学医学部卒(昭和43年)―東北大学研修医―山形県立中央病院勤務(17年間)―福島県立大野病院(昭和60年〜) 富岡中央医院開業(平成3年〜)前双葉郡医師会会長(〜平成25年)―富岡中央医院再開(平成29年4月)

「山形から富岡へ」

私は大学を出た後(昭和43年)、東北大の研修医を経て、山形県立中央病院に17年間勤めていました。それから昭和60年に家内の両親が高齢のため富岡に来て県立大野病院に入り、5年間勤務して平成3年に富岡中央医院を開業しました。

現在の富岡中央医院2021年2月

旧富岡中央医院2015年12月

「震災から避難へ」

平成23年当時は、富岡中央医院を開業して20年くらい経っていました。当日地震が来た時は、診療中だったんですが、暗雲立ち込め吹雪いてきて、昼間なのに暗くなって、停電になるし、物は倒れてくるし、物凄い揺れが続いてもう生きた心地しなかったです。院内に何人かいた患者さんはすぐに帰して、スタッフも散乱した物を除けて歩くスペースだけ整理したら家に帰しました。当時は携帯は使えないし、インフラが遮断されてどことも連絡とれなくなり、夜は余震が続く中、ロウソクつけながら一晩すごしました。

翌日の朝、防災無線が聞こえましたが、途切れとぎれで何を言ってるのかわからず、とりあえず家内と役場に様子を見に行くとそのまますぐ避難するように言われました。ほとんど何の用意もしてないまま、朝7時くらいに車で川内に向かうとすごい渋滞で、着いたのはお昼でした。着いてすぐ「ゆふね」(*1)という診療所に行くとドクターがいなくて大変だったんで、そこで避難した方の診察を始めました。その間にテレビで原発が爆発した様子をみてこれは大変な事になったと。15日になると今度は川内からも避難するということになり、最後まで一緒に残っていた消防士の方が、奥さんの実家の会津なら安心だからと誘ってくれたので、一緒に行って会津に一晩お世話になったのです。

「ビッグパレット避難所」

翌16日から郡山の家内の妹のところに1ヶ月くらいお世話になりました。16日は避難所だったビッグパレットに行ってみるとすごく混乱していて、これはなんとかしなきゃと翌17日からドクター、ナース、薬剤師を集めて、ボランティア医療班を立ち上げました。スタッフは佐藤先生(佐藤正憲先生/さくらクリニック)と奥さん(看護師)、薬剤師は富岡の坂本薬局さん、後日から堀川先生(堀川章仁先生/夜の森中央医院)も合流してくれて、その態勢で8月末日のビッグパレット避難所の閉所まで活動していました。
4月25日にはビッグパレットの救護所を診療所化させて欲しいと県に申請をしました。慢性疾患の方が沢山いたので、投薬したり、ちょっとした治療ができるようにしたかったのですが、県が7月の議会を通さないと認められないというのです。岩手県は申請して3日で許可をもらったのに、この福島では縦割り行政がひどくて認めてくれませんでした。それで悩んで、ストレスがたまって体調崩したこともありました。でも何とかしようと、郡山の薬局さん二つに入ってもらって、ある程度の治療、投薬などができるようにしました。そして避難所にいた2500人一人一人を毎日見回りをして、早期発見早期治療を心掛けたのです。各方面のご支援を頂いたおかげで、当時ビッグパレット避難所では一人も亡くなった人がいなかったことを誇りに思っています。

 

ビッグパレット避難所/奥に臨時診療所の看板

ビッグパレット避難所解散式2011年8月31日

「病院の避難」

当時、県立大野病院は厚生病院との合併の準備で患者さんが40人しかいませんでした。それがまるまる川内の「ゆふね」に避難してきて、それから患者さんを各病院に振り分けたんです。今村病院の患者さんの一部もそうでした。それ以外の病院は独自に避難先を探さなければならず、県は混乱していて面倒見きれない状態だったと思います。
双葉病院の場合は一時は取り残されましたが、3月14日に自衛隊のバスで救出され、まず原町の保健所に行ってスクリーニングをしました。それから受け入れてくれる医療機関を探したがなかなか見つからなくて、いわきの光洋高校に着くまで10時間かかったのです。動けない寝たきりの患者さんをバスに乗せたり、何の医療設備のない体育館に入ったために犠牲者がでてしまいました。でも本来は事前に県内外の病院と提携しておかなければならないのです。福祉系の施設も同じです。ただそこまでの搬送が大きな問題なんですけど。あとは在宅の患者さんの対応は行政が担わなければないと思いますが、いまだに取り決めがなってないんです。

「大玉村仮設診療所〜富岡へ」

1200人を収容できる大きな大玉村仮設住宅にも、仮設診療所を作りました。8月からボランティア医療班で診療にあたり、平成29年3月の閉鎖まで5年8カ月の間やっていました。大玉では聖路加国際病院の訪問介護チームに毎日見回りしてもらって、2年間は死者がでませんでしたが、落ち着いてきて聖路加が引き上げた年の正月に1人亡くなり、その後何人か亡くなってしまいました。それだけ見回りというのは大事なのです。

 

大玉村仮設診療所

案内板

平成29年の避難指示解除の半年前には、今村先生(今村諭先生/元今村病院、現とみおか診療所院長)に依頼して、平成28年10月にとみおか診療所が開院しました(当時は町立、現在は医療法人社団邦諭会)。医療機関がないと帰還が進まないですから。

私は震災当時は双葉郡医師会の会長だったので、今後の双葉郡の医療について検討し、帰還する人口を見越した医療という事で富岡については診療所が二つ、入院ができる施設が小さくても一つ必要だという構想で進めてきました。そして早めに富岡診療所を立ち上げてもらい、あとは私が足りない分を補うという事で、医院を再開したのです。そして双葉郡からなくなってしまった二次医療施設が必要だという事で、平成30年4月に県立ふたば医療センターができました。しかし人口がこれ以上急には増えないという中で、一般の患者さんだけでは採算が取れないのです。でもこの地区では一般診療のほかに、廃炉関係や除染関係等の仕事で来られてる皆さんの健診が必要なので、それでなんとかもってる状況なのです。当初診療は今村先生が水木金土はできるということで、私の方が月火水木やって、だぶる部分もあるけど、これで週6日一次医療を担っているのです

「地域の医療」

双葉郡は今、8町村がそれぞれ診療所や福祉施設が必要だ、商業施設が必要だとバラバラに独自に進んでいます。早く解除になった川内と広野は自立して進んでるからいいと思いますが、でもそれ以外は還ってくる人が少ない中で、双葉郡の医療福祉体勢をどうするのか。そこで医療福祉に関わる人材が足りない中でやりくりするのなら、まとめて一つにした方がいいと思います。例えば医療、福祉、介護をまとめた総合施設を作るように、行政に要望したのですが出来ませんでした。
この地域では在宅医療を勧められているが、向いてないと思います。元々は家族三代で住んでいたようなところはお年寄りは家族が面倒見てましたが、家族が離散して、老老介護だったり独居が多くなって見守る人がいません。高齢者は帰ってきた時は元気でも年を追うごとに認知症が進み、生活習慣病は悪化し、大きなマンションタイプの公営住宅に入ると様子がわかりません。だから孤独死になっても不思議じゃないのです。それを誰がみるかというと、包括支援で社協さんと見回りをし、状態が悪い時は私たちが行って診療をしています。生活状況を見れば、認知症かどうかすぐわかるので、ケースによっては早く施設に入ってもらうようにしています。

「住民の方向性」

地元を忘れられないという方は多いと思いますが、各避難先で生活が成り立ったならば、もう移住に決めたほうがいいと思います。町としても帰ってくるか来ないかわからない状況を待ってても先には進めないので、それを前提にしない町づくりを目指して欲しい。これからは他の地域から移り住んできる方が多くなるので、そういう方々をこの地域に定住してもらうにはどうしたらいいか。アイディアが欲しいところです。

私が富岡に帰ってきたのも、最初からずっと町民の皆さんと行動を共にしてきたからです。元々は70歳で引退するつもりだでしたが、70歳の時に震災になってそのまま10年経ってしまいました。なんとかしなきゃいけないという使命感もあったし、辞めるに辞められない状況です。

(2021年2月取材)

「ゆふね」(*1)川内村の保健・福祉・医療複合施設

ビッグパレットふくしま避難所の記録
町民の言葉と写真で避難所でのの日常を記録した本
(株)アムプロモーション発行

井坂先生のお話も収録した9名の医師たちの証言

救命 東日本大震災、医師たちの奮闘
井坂先生のお話も収録した9名の医師たちの証言/新潮社