村澤むらさわ 永行のりゆき さん | 浪江町

村澤むらさわ 永行のりゆき さん | 浪江町

漁師(相馬双葉漁業協同組合 請戸支部)

漁師一筋で生きてきた

わたしの船は幸玉丸(こうぎょくまる)。大震災の6年くらい前に新しく建造したんだ。この船でいま、浪江の請戸漁港から週に2回、試験操業に出ています。

高校の頃から、休みの日にじっちゃんや親父と一緒に船に乗ってきて、そのままずっと漁師の仕事を続けてきた。季節にもよるけど、だいたい夜中12時におきて1時に出航。8時のセリに間に合うように戻ってきて、1日の仕事はおしまい。そういう生活だったね。自宅はずっと(南相馬市小高区)浦尻だけど、仕事場は請戸だったから、たいていの買い物は浪江町内で済ませてたよ。スーパーやホームセンターもあったしね。

大震災の日も、朝はいつもどおり漁に出てました。(午後2時46分に)地震が起きたときはちょうど、小高の床屋にいたの。浦尻の自宅は、幸い波は来ず無事でした。でも(船を救うため)港へ戻るのは間に合わなかったんだ。船が心配で翌日見に行ったら、津波に運ばれて請戸の共同墓地の側に乗り上げてるのが、遠くから見えた。

小高にもすぐ避難指示が出て、最初は原町へ逃げたけど、そこもダメというので自分たちは福島市へ向かいました。(もっと遠くへ行こうにも)そのくらいしかガソリンが入ってなかったんだな。まず避難所になっていたあづま球場へ行って、その後は飯坂温泉の旅館とか転々として、福島市内には結局1年くらいはいたね。その後、(南相馬市)鹿島の仮設住宅に移って、最近までそこで暮らしてました。

小高区の避難指示が解除された後、獣害がひどかった浦尻の自宅を修繕して、一足先に両親が戻り、今年(2019年)3月に自分も戻って、今はまた家族で暮らしています。

先のことは言わない。今やっていることをやり続ける

避難してからも、おれはまた必ず船に乗ると決めていた。自分の船を再建してまた漁に出るんだと。迷ったことはなかったな。(まだ請戸が警戒区域だったとき)許可をもらって、避難先から造船業者といっしょに陸に乗り上げた幸玉丸を見にきたの。そしたら、幸い直せばまた乗れるってことだったので、(2014年に区域再編で請戸に入れるようになった後)運転席と船体とに切り分けて移動、修理して、ようやく海に戻しました。

相馬双葉漁協の試験操業は、(相馬市)原釜漁港から2012年には始まってたけど、わたしが出るようになったのはその1年後くらいからだね。最初はまだ自分の船がなかったから友達の船に乗って、漁だけでなく海中ガレキの撤去なんかもやりました。

2017年2月に請戸漁港の一部復旧が終わって、われわれ請戸支部の船はやっと請戸に戻ってこれた。いまは請戸から漁に出て、請戸で水揚げしたのを(車で1時間かかる)原釜でセリにかけるため陸送してるの。だから活魚じゃなくて鮮魚だね。でも、いま建設中の荷捌き場や水産加工団地が完成すれば、また請戸でセリができて、活魚が出荷できるようになる。そうしたらまた一歩前進だけども。

▲建設中の荷捌き施設(2019年8月撮影)

といっても、肝心の漁はまだ試験操業で、基本的には週に2回だけ。いつになったら本格操業できるのか、まったくわかりません。いまは、安い高いは別として獲れたものに値はついてるけども、(第一原発の汚染水排出などがあれば)この先はどうなるんだか。

自分は今年50歳。請戸には20代、30代の漁師もいる。みんな食っていかなきゃなんねえ不安はあると思う。でも、漁師やってる人らはみんな、こう考えたんでねえかな。試験操業でもなんでも、海に出られればいいかって。そうやってこれからまた一歩ずつ進んでいけばいいかって。おれみたいにな。

だから先のことは言わねえ。今やっていることをやり続けていけば、だんだん進んでいくんじゃねえかと思って、やっていくしかないんだ。

2019年8月取材
文・写真=中川雅美

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