神長倉かなくら 豊隆とよたか さん | 浪江町

神長倉かなくら 豊隆とよたか さん | 浪江町

特定非営利活動法人まちづくりNPO新町なみえ 理事長

書き入れ時を襲った大震災

浪江町は室原の生まれです。震災前に新町商店街で営んでいた生花店は、父が昭和27年に開業したものでした。高校卒業後、仙台の花屋に1年間修業に出た以外はずっと浪江暮らし。28歳のとき家業を継ぎ、あの地域としては大規模な生花店として順調に経営していました。いわきの大学に通っていた長男も後を継ぐため戻ってきて、一緒にやっていたところへ東日本大震災がおきたのです。私が60歳の年でした。

毎年3月はいろいろな式典や歓送迎会のシーズンで花屋は忙しいんですよ。3月11日は町内の中学校の卒業式で、午前中に各校の納品が終わり、店に戻って次の準備をしていたところへ地震が来ました。ものすごい揺れで店の中はぐちゃぐちゃになってしまい、その日はとりあえず酒田の自宅へ帰宅。翌朝から片付けて早く再開できるようにしようと息子と話していたのです。ところが早朝から避難の指示が出て、最初は10キロ圏外へというので室原の実家へ行きました。でも他の人はみんな、そこを通り越して(さらに西の)津島方面へ向かっていくわけですよ。それで私たちも津島へ向かいましたが、道は大渋滞。ふだんは30分のところ6時間もかかって避難所に到着したとき、もうあたりは真っ暗でした。

そして3日目、役場と一緒に二本松市の東和地区へ移動。ありがたいことに市内の知人の花屋さんがご自宅に泊めてくださることになり、私たち家族はそちらに3月いっぱいお世話になりました。その後は親戚のいる郡山のアパートに引っ越して3年ほど過ごし、2014年秋には郡山に自宅を購入。現在もそこで暮らしています。

変化する状況の中で活動を継続

「まちづくりNPO新町なみえ」は、私たち新町商店会のメンバーが立ち上げたものです。震災から2か月後の5月に総代会で集まったとき、避難でバラバラになってしまった町民のために何かできないかと考えて、まずは盆踊りを復活させようということになりました。6月ごろ太鼓や笛などの道具を浪江に取りに帰って、そこから練習を開始。そして8月10日、二本松市内で「浪江の盆踊り」を開催したところ、町民だけで3千人も集まったのです。お互いどこへ行ってしまったかわからない状態だったので、あちこちで抱き合って再開を喜ぶ姿が見られました。遠くはいわきから電車を乗り継いで一人でやってきた90歳近いおばあちゃんもいたんですよ。その年の秋には二本松駅前で(浪江の秋の風物詩だった)十日市祭も開催し、2日間で延べ3万人が来場しました。その許可をとるのに警察署に20回くらい通ったのを覚えています(笑)。

「新町なみえ」は2012年1月にNPO法人として認定を受け、その後も盆踊りや十日市祭のほか、県内外で町民交流会や復興まちづくりワークショップを開催したり、仮設・借上げ住宅の自治会を支援したりしてきました。震災から8年、町の一部で帰還が始まり、仮設住宅がほぼ無くなるなど状況は変化してきていますが、「新町なみえ」は現在も二本松市内を中心に活動しています。「新ぐるりんこ」と名付けた移動支援サービスや、復興公営団地の入居者向け共同農園の運営などを通して、町民のコミュニティを維持する努力を続けています。特に男性は引きこもりがちですが、この農園で畑仕事を始めたら家から出るようになって、ご家族からも喜ばれたケースもあるんですよ。

▲3台の車両で移動支援サービス「新ぐるりんこ」を運営▲

将来帰ってくる人たちも温かく迎えてほしい

駆け足で通り過ぎた8年間でした。取るものもとりあえずの避難でしたが、「すぐに帰れるだろう」という気持ちの一方で、最初から「これは長くなるかもしれない」という直感が私にはあったのです。なにしろ放射能汚染という問題ですからね。それでも私はずっと、いずれは浪江に戻るつもりでやってきました。昨年3月に浪江の自宅のリフォームが完了したので、それ以来ときどき泊まりに帰っています。

いま私が考えていることは、浪江で「ものづくり」の事業を興すことです。商業が盛んだった浪江町ですが、私が見てきたところでは「ものづくり」に強い町のほうが災害からの復興は早いように思われる。小売りやサービスという「川下」だけでなく「川上」に近い産業を作ることが大切なのではないかと。そこで、私が目を付けたのは「和紙づくり」です。原料の三俣や楮(こうぞ)は町内で栽培が可能ですし、食品ではないので風評の心配も少ないはず。そして、できた和紙をさまざまなものに加工することで、高齢者にもできる新たな手仕事が生まれるのです。

こうした事業は行政の支援がないとスタートを切るのが難しいのも事実ですが、粘り強く働きかけて実現したいですね。また、「新町なみえ」の事務所を町内に設けることも検討しています。8年間の苦労を振り返るよりも、こうして先のことを考えている方が楽しいですから。

一方、少し気になることもあります。私も委員の一人として策定に関わった「浪江町復興計画(第一次)」は、「どこに住んでいても浪江町民」というスローガンのもと、町民一人ひとりの生活と心の復興を支援し続けるというものでした。しかし、一部で帰還が始まった後は、町に帰った人の支援に重心が移りつつあるのではないでしょうか。まだ生活環境が十分整わない浪江へ帰ってがんばっている人がいる一方、諸事情により帰りたくても帰れない町民はまだたくさんいます。両者が分断されるのではなく、将来帰ってくる人たちも温かく迎えてくれるような浪江町であってほしいと思います。

2019年4月取材
文・写真=中川雅美