松永まつなが 武士たけし さん | 浪江町

松永まつなが 武士たけし さん | 浪江町

大堀相馬焼松永窯4代目/株式会社ガッチ代表取締役
出身:浪江町

早く地元を離れたかった

浪江町の伝統的工芸品、大堀相馬焼の窯元の家に生まれ育ちました。僕が4代目を継いだ松永窯というのは実は分家で、本家から数えると8代目になります。分家の松永はもともと松永陶器店として始まり、メーカーではなく問屋だったんです。卸売だけでなく製造もするようになったのは父の代からで、成型は雇った職人さんにお願いし、その後の絵付けから焼成までを手掛けていました。

でも、実際に窯を持ってみて、これは大変だという自覚があったのでしょう。父は僕に後を継げと言ったことはなかったし、自分も全くその気はありませんでした。地元の大堀小学校では図工の時間に大堀相馬焼をやるんですけど、僕はあまりに下手でこれは向いてないと(笑)。それより、早く地元を離れたかった。

田舎で大学といえば国公立主義ですが、コンビニで買ったビジネス誌を読んだら、卒業生の年収ランキングは国公立より私立のほうが高かったんです。当時は完全に就職してサラリーマンになるつもりでいましたので、授業料が高いのを差し引いても、私立のほうがコスパいいじゃん!と(笑)。それで、南相馬の原町高校を卒業後、東京の慶応大学湘南藤沢キャンパス(SFC)に進学しました。

ところが、やっぱり東京の大学というのは基本的に何でもできるスペックの高い人ばかりだったんですよね。周りじゅうそういう人たちに囲まれて、この路線でふつうに勝負しても厳しいな、と気づいた。それで自分は自分の道を行こうと思い、2010年、大学2年のときに起業してガッチという会社をつくりました。

海外のビジネスで学んだこと

東日本大震災が起きた2011年3月11日は、中国大連で新規ビジネスを立ち上げるため、出発する日の3日前でした。すでに大学には休学届を出してあり、最後の準備をしていたときです。幸い、親の無事はすぐ確認できましたが、親族の中には津波で亡くなった人もいました。予定通り出発するかどうかは当然悩みましたけど、多くの人を巻き込んで準備してきたことだし、いま自分はこれに注力するべきだと考えて踏み切りました。震災・原発事故から3日後の空港の様子はよく覚えています。日本を脱出する人たちで大変なことになっていました。中国に着いたときも、「よく生きて脱出できたね」みたいなことを言われて。当時は韓国あたりまで放射能が来ているという噂も飛び交ってましたからね。

その後の1年間は、中国在住の日本人にドクターを派遣する事業や、カンボジアでマッサージ店を経営するビジネスなどを立ち上げ、順調に展開していきました。僕にとって初めての海外だったんですが、行ってみてとても肌に合ったんですよね。香港やシンガポールにも滞在しましたが、活気のある東南アジアの都市はとても魅力的で、ぜひそういう場所で勝負してみたいと考えるようになりました。

そうして立ち上げた事業をすべて譲渡して、日本に帰って来たのが2012年春のこと。直接の理由は父の病気でしたが、外国で暮らしてみて日本の伝統工芸品に対する評価がとても高いことがわかり、それを復興に貢献するビジネスにしたいと思ったからです。

なぜそれに気づいたかというと、海外から一時帰国するとき、日本のお土産をあちらへ買って帰るわけですが、そこで大堀相馬焼を思い出したんですよ。「日本らしいもの」なんて他にもいろいろあるけど、そこで自分の故郷の伝統工芸をぜひ紹介したい、という気持ちになった。たぶん、震災がなければそんなふうに思わなかったかもしれません。そうして持っていった焼き物が、現地では素晴らしいものとしてリスペクトされるのを経験したのです。

初めての「腹落ち」する感覚

ありきたりな言い方ですけど、外国に住んで、自分のアイデンティティを再確認したんですね。自分は何者かと。それまでガッチはいろんなビジネスを仕掛けてきて、順調に利益は上げたかもしれないけど、なんとなく自分の中で「誇り」は感じられなかった。僕は、事業が成功しても数字の上で淡々とやっていくタイプ。商材そのものへの執着がほとんど無いからかもしれません。

それが、自分の地元に代々続いている伝統工芸品を扱うことで、初めて「腹落ち」する感覚が生まれたんです。大堀相馬焼に関しては、むしろ“執着”を捨てられない。自分の中でも新しい発見でした。

西郷村で再開した松永窯の店内

日本に帰国してからは、西郷村で父が再開した松永窯の4代目として、作品のバリエーションを増やし販路を拡充してきたほか、ガッチとしても大堀相馬焼の特徴をいかしつつ他の伝統工芸やデザイナーとコラボした新商品を開発。海外へのマーケティングも積極的に行っています。また、松永窯だけでなく大堀相馬焼全体の復活が大切ですから、大堀相馬焼協同組合とも連携し、販売促進や職人さんの育成に力を入れているところです。これまで延べ20人ほどのインターンを受け入れ、各窯元で実習をしてもらいました。いま現在(2018年7月時点)も3人が地域おこし協力隊として職人見習いをしています。今後は、時代に即した窯元の経営モデルを確立して、大堀相馬焼だけでなく日本全国で危機に瀕している伝統工芸品の振興に貢献したいと思っています。

「どうでもいいもの」から「どうしても残したいもの」へ

大学で上京した後、浪江に帰ったのは盆と正月くらいでしたね。海外に住んでいる間の一時帰国は、当時両親が避難していた栃木県那須に帰っただけで、浪江には行っていません。何年ぶりかで浪江に行ったのは、帰国後しばらくしてからです。いわきから国道6号を北上して浪江に入ったとき、「ああ、帰って来た」というのが一番の印象でした。バリケードでふさがれて何もかも変わってしまっていたけど、正直「落ち着いた」という感覚のほうが強かったんです。これには自分でも驚きました。空気とか風とか、そういうものでしょうね。

(現在は帰還困難区域でまだ立ち入れない)大堀地区の将来については・・・いま答えるのは難しいですね。でも僕は、いちばん大事なのは「大堀相馬焼」という名前が生き残ることだと思っているんです。正直にいうと、そのために大堀という土地(に帰ってやること)がどれだけ重要かといえば、おそらく優先順位はそれほど高くない。例えば(大堀相馬焼と発祥を共にする)相馬駒焼は、今は後継者がいないためもう作れなくなってしまいました。そうなってしまわないためには、置かれている状況下で何を残すか見極めて優先順位をつけないといけないと思っています。大堀で再開したらみんな応援してくれるかもしれないけど、商売として成り立つのか?最初は補助金があっても、お金が回らなければ早晩作る人はいなくなります。だれも伝える人がいなくなったら意味がありません。

大学時代に起業して9年、いろんな事業を手掛けてきましたが、なぜいま大堀相馬焼をやっているかといえば、「それがビジネスになるから」という理由だけじゃない。ただえでさえ高齢化で後継者問題に直面していた大堀相馬焼が、震災・原発事故で産地を追われ、窯元が離散する状況を見ていて、このまま行けば誰が見ても100%消えてなくなってしまうぞ、と。それでいいのか?と思ったら、答えはNoだったんです。

大堀相馬焼300年の歴史の中で、これまでも先人たちは幾多の困難を乗り越えてきたわけですよ。明治時代に入って(他の産地と差別化するために)二重構造を編み出したり、戦争で壊滅的な状況になったときは金の馬を描いて海外へ輸出したり。そうやって工夫に工夫を重ねて生き延びてきたんだから、今回だってできないわけがないだろうと。つまり今の大堀相馬焼には、つくり手だけでなく買った人、使ってくれた人も含めて何十万、何百万という人の汗との涙と思い出が詰まっているんです。

そう思ったら、以前は自分の中で「どうでもいい」ものだった大堀相馬焼が、どうしても「残したいもの」になりました。そのための体制づくりを他に誰もやる人がいないなら、自分がやるしかない。

生きられなかった分の未来まで

ただ、「技」の世界である伝統工芸品の仕事は、職人の育成から始まって一朝一夕にはできません。他のビジネスとはスピード感が違います。物事がポンポンポンと進んでいくのが好きな僕にとって、いちばんの学びは「忍耐」ですね(笑)。僕の性格的にはそれだけだと難しいので、全く別のスピード感あるプロジェクトも同時に回すようにしてバランスをとっています。

もし大震災がなかったら、おそらくあのまま、刺激の多いアジアを中心に世界を回って生活していたでしょうね。いまは(ガッチの拠点である)東京と(松永窯のある)西郷と半々くらいの生活ですが、それだけでなく常に外の世界、新しい世界を見たいという気持ちはあります。

また別の観点からお話すると、今でもあの震災で「生き残った」感覚が強い。津波で命を失った人だけでなく、原発事故のせいで人生が変わってしまった人、あれで進路が変わってしまった子供たちもたくさんいた。その中で、自分はたまたま東京に行かせてもらって、同年代からすればかなりレアな体験をさせてもらった。だからといって、申し訳なさそうに縮こまっているのは逆に違うと思っています。こういうと偉そうに聞こえるかもしれないけど、彼らが生きられなかった分の未来まで生き、見たくても見られなかった世界を見て、伝えていくのが僕のやるべきことだと思っているのです。

2018年7月取材
文/写真:中川 雅美