宮口みやぐち 勝美かつみ さん | 浪江町

宮口みやぐち 勝美かつみ さん | 浪江町

元浪江副町長
【略歴】
1955年、陸上自衛官だった父の駐屯先、北海道名寄市で生まれる。小学3年のとき、浪江町室原の祖父母のもとへ単身で戻り、苅野小学校に転校。高校まで浪江で過ごす。1977年日本大学卒業、1978年浪江町役場に入職。総務・企画を中心に幅広い分野でキャリアを積み、2010年より浪江町議会事務局長。2011年3月定例議会中に東日本大震災・福島第一原発事故が発災。2013年より復興推進課長、2015年3月定年退職。2015年10月より浪江副町長として引き続き復興に尽力。2018年8月退任。

住民との距離が近い小さな役場に勤める楽しさ

小学3年からずっと父の実家がある浪江町室原で暮らし、大学の4年間だけ東京で生活しました。当時は将来のキャリアについて明確には考えてなかったですね。教職課程をとっていたので、浪江に帰って教育実習に臨んだものの、あまりピンと来ない。むしろ、大学生活中にやっていた青果店のアルバイトの方が面白かった。元来私は人見知りで、初対面の人とはあいさつ以降の会話がまったく続かない人間でした。それが、その店のアルバイトで接客を学び、人と接することの楽しさを知ったのです。一時はその店への就職も真剣に考えていました。

結局は祖父母の強い求めに応じる形で浪江に戻り、翌年に町役場へ就職しました。2018年8月に退職するまで40年間、勤めあげたことになります。そのうち半分くらいが総務と企画。他にも国土調査や年金などいろいろな仕事に携わりましたが、やはり現場を歩いて町民と接する仕事がいちばん楽しかったですね。同じ公務員でも県や市と違い、浪江のような小さな町役場は住民との距離がものすごく近いんです。それが基礎自治体職員の醍醐味ではないかな。

職員になりたての頃、総務課で広報誌の配達を手伝っていたこともあります。当時、町の広報誌は職員が各行政区長さんのところへ毎月届けに行っていて、なんて非効率な、と思っていましたが、いま考えればこれはすごいシステムでした。広報誌の受け渡しの際、たわいない会話の中から地域の要望や困りごとなどを聞き取り、すぐに対処できる。つまり、町民の「御用聞き」という大事な役割を果たしていたんです。そういう小さな声は、「住民懇談会」などの改まった席で吸い上げようとしてもまず出てきません。そうした一見無駄のようで実は本質的な意義を持った仕事も、原発事故による広域分散避難で難しくなってしまったことのひとつでしょうね。

想定外の連続、朝令暮改に振り回されながら

2011年、私は浪江町議会事務局にいました。定年まであと5年。引退後は何をしようか、などとぼんやり考え始めていた頃です。

大震災が起きた3月11日は、定例議会の全員協議会の真っ最中でした。議員定数問題などで長引いた議論がやっと取りまとめに入れるかというタイミングで、ものすごい揺れが来ました。議会は当然流会となり、役場にはすぐに災害対策本部が立ち上がりましたが、そのとき私の頭には原発のことなどまったく浮かびませんでした。それだけ(安全神話に)慣らされていたということでしょう。

翌朝になって原発が大変だということで、全町民、役場ごと津島地区への避難が開始。その後は二本松市内の数か所を転々と移動することになりました。次々と新しい事態が発生し、朝令暮改される国のルールや方針に振り回されて、役場の中はもう極限状態です。そんな中で新たに「政策調整班」が作られ、私はそのメンバーとして、庁内の調整や町民の対応に奔走する日々が続きました。

町として原子力災害の避難計画はもちろんありましたし、避難訓練もやっていました。でも全町民が役場ごと町外へ避難するなどという事態は、誰にとっても想定外だったのです。役場が町の外で何かやろうとしても、自分たちだけでは何も決められません。一歩町外に出たら、避難所の物資や食材を調達するにも掛け売りはしてもらえず、すべて現金決済でした。お金が足りず、一時は町長の定期預金まで借りて使用していたんですよ。

そんな中で私自身、自宅には震災当日にいちど着替えに帰っただけで、後はずっと役場と行動を共にしていました。当時同居していた両親のことはすべて妻に任せ、自分は仕事に専念できたのは本当に有難かったですね。その両親は、津島、福島市を経て千葉県松戸にいる私の妹のところへ避難していきました。

4月下旬、役場は二本松市内の男女共生センターに間借りをすることになったのですが、それまで避難所の床などで寝泊まりしていた私たち職員は、みな自力で部屋を探さなければなかったんです。でも昼間仕事をしながら探すのはほとんど不可能で、私は再び妻に頼って市内のアパートを見つけてもらいました。当時は借上げ住宅(みなし仮設)制度が始まった頃で、一度提示された家賃が(県から補填されるとわかると)急に値上がりしたりして、理不尽な思いもしたものです。

その年の8月には、松戸にいた両親を呼び寄せ、その小さなアパートで再び同居を始めました。しかし、慣れないアパート暮らしで体調を崩す親の姿を見て、翌年には二本松市内に土地を求めて自宅を再建することにしたのです。

避難指示解除は重かった

2013年に私は復興推進課長を拝命し、復興計画(第二次)の策定をはじめ、町土の復興と町民の暮らし再建のためのさまざまな施策を担当しました。今から思い出しても、復興推進課の2年間はいちばん「楽しかった」ですね。もちろん業務は大変でしたが、優秀な職員に加えて国や県、民間からの外部人材が多数集まり、これ以上は望めないくらいのチームで仕事ができたからです。

2015年3月に定年退職した後、同年夏に(前副町長の退職を受けて)副町長への就任を打診され、悩んだ末に引き受けることしました。といっても、考える時間は3日しかもらえませんでしたが(笑)。それで、県から派遣された本間茂行副町長とともに当時の馬場有町長を支える体制をつくりました。

2017年3月末の一部避難指示解除は、ほんとうに重い出来事でしたね。その決断に至るまで、前のめりで「解除・帰還」を進めたい国との折衝、一連の住民説明会など、特にこの間の町長の心労は計り知れません。浪江町の本庁舎に戻ってからまもなく体調を崩され、2018年6月末、任期を残して亡くなられたのは残念なことでした。

役場の本庁舎への帰還と同時に、私も庁舎のとなりの借家で単身暮らしを始めましたが、正直いって当初の感想は「こんなにも生活しづらいのか」ということ。想像以上でしたね。仕事中はいいんですよ。庁舎の中はなにも不便はないから。でも夜間や休日など、買い物をする店がないだけでなく、時間をつぶす場所がまったくないというのは本当に辛いものでした。

そんな浪江での生活が1年半近くになるころ、私は町長の交代を機に退職し、町役場での40年間に終止符を打ちました。

ここに「帰れる」ということ自体が不思議だった

震災直後は(町に戻るのは)もうダメかな、と感じていたんです、個人的には。ここに「帰れる」ということ自体が不思議だった。その頃、庁内の意見も二分されていたと思います。しばらく帰れないだろうから町外で町民が集住できる環境をしっかり作ろうという意見。いや、それを作ってしまってはもう二度と帰らなくなってしまう、という意見。ただ、先にも述べましたが、役場が町の外にあると、いわば他人のテリトリー内ですから何をやるにも自由にはできません。やはり町へ帰らないとどうにもならない、という焦りはありましたね。

2012年10月策定の復興計画(第一次)は、議論の末、「故郷への帰還を目指す」ことが前提となりました。そこで謳われた、「どこに住んでいても浪江町民」という表現には、当時は町議会でも多くの質問が出たのですよ。遠く九州や沖縄に避難した町民も、町は本当に支援し続けられるのかと。最終的にはそのまま採択されましたが、「どこに住んでいても」(同じレベルの支援)など、現実には不可能ではないかという疑問は、正直、頭の隅にありました。

いま、避難解除から2年以上経って浪江町内は店も少しずつ増え、ついに大手スーパーも開業します。ただ、スーパーができればみんな帰ってくるという単純な話でもありません。当面は様子見という町民が多いのは仕方ないでしょうが、(居住人口の増加が)このペースでは町内の事業環境もなかなか厳しいのではないかと感じます。

私自身は、退職とともに、二本松市に再建した自宅に戻って生活しています。今も帰還困難区域である浪江町室原の元の家は、獣害がひどく、先ごろ解体しました。帰還困難区域も拠点を定めて除染して帰還を目指すことになりましたから、室原も(除染廃棄物の)仮置き場が決まれば国による除染が始まります。ただ、帰還困難区域は(2013年の区域再編時に)「もう帰れないぞ」と申し渡されたようなもの。今になって「除染したら帰りますか?」と聞かれても・・・・・・複雑な心境としか言えません。

とはいえ私個人としては、家族の意向や都合もあって難しいところですが、浪江に帰りたい気持ちはあります。高校生の頃はあんなに浪江を早く出たかったのに、おかしなものですね。

2019年6月取材
文・写真=中川雅美

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