アイアイを愛してくださった方々に、感謝の気持ちを伝えたい
昭和57年10月10日にオープンした「AiAi 協同組合ショッピングプラザ広野
(通称:アイアイ)」は、当時8つのテナントが共同で立ち上げた総合ショッピングセンターです。オープン前まで私たち夫婦は、現在自宅がある場所に昭和46年からインテリア用品や洋服を扱う店を経営していたんです。当時は建設ラッシュで、雨戸を入れるのが主流だった時代からカーテンを取り入れる家庭が多くなり、オーダーカーテンの需要が増え、忙しい日々を送っていました。
オープン前、広野町の商店街通りは大きな駐車場が無く、お客さんたちは路上駐車されていたのですが、駐禁の切符を切られ罰金を払われていた方が多かったんですね。折角買い物に来てくれているのに余計なお金をかけさせるのも申し訳ないと、商工会でメンバーを募り、駐車場も確保でき、一か所で買い物を済ませられる核になるお店を作ろうと、同志と共に閉店後から連日話し合いを繰り返し、紆余曲折の末、前述した日にオープンとなり「皆さんに愛されるお店作りをしたい」という気持ちから“暮らしに愛、出会ってあいあい”をキャッチコピーに「アイアイ」が誕生しました。
10月10日にオープンしたのにも理由があり、10と10の字を縦にすると“瞳(英語でEYE(アイ))”に見えますよね。そんなふうに“愛”があふれるお店にしたいという思いが沢山詰まったお店だったんです。
靴や本、おもちゃ屋はもちろん、洋服や食料品、飲食ブースも設けられたアイアイは、広野駅から徒歩5分という便利な場所に店舗を構えられたこともあり、双葉郡の他町村やいわき市から来店される方も多く、大変賑わいました。長年営業を続ける中で後継者が居ない等の理由から撤退された店舗もありましたが、お陰様で震災当日まで営業を続けることができました。
震災発生から秋田県へ移動するまでの経緯
震災があった3月11日も営業中で、私自身も新入学シーズンということで業者さんと商談をしている最中でした。大きな揺れに襲われましたが、消防法により避難訓練を年2回行い、有事の際には従業員それぞれに担当が決められていたこともあり、お客さんを外までスムーズに誘導することができました。アイアイは比較的海から近い場所に建っているため津波を心配し、保育園前まで避難しました。全員の安否確認をしホッとしていると、高台である保育園の土手から、津波が遡上してくるのが見えたんです。黒い水が押し寄せ、海岸沿いに建てられた家屋が流されていく光景を見ていました。
その場で待機していると津波に巻き込まれながらも避難されてきた方が私たちのところにずぶ濡れのまま何人かやってきて「家が流されてしまい、何も無くなってしまった。着るものだけでもほしい」と。当日は雪も降っておりとても寒く、裸足で震えていた方たちを連れて、一旦アイアイまで戻り店を開けたんですね。店舗内は何ともなかったのですが駐車場は水浸し。またいつ津波が来るか分からない不安の中、シャッターを半分開けると「アイアイが開いた!」と、沢山の人が入って来ました。
「営業はしていない」と伝えましたが、みんな必死だったのでしょうね。どんどんお客さんがやって来て、すぐにでも食べられるパンやカップラーメン、お茶、水などを購入されていきました。津波被害に遭われた方達にも衣料品を一式提供し、一時間半ほどで店を閉め、娘や孫たちと合流して広野町の保健センターで一夜を明かしました。
翌日私は役場からの要請でおにぎりを握ることになり、従業員の男性と家族6人で店舗にておにぎりを作りました。最後のおにぎりを役場に届けに行くと、電気はついているのに誰も居ません。小学校や保健センターなども回りましたが、車は有るのに電気はついておらず、鍵もかかっている。避難することを知らされなかった私たちは途方に暮れながら「とりあえず南に逃げよう」と着の身着のままいわき市へ向かい、草野小学校の体育館に受け入れていただきました。その後家族、親戚とも連絡が取れ、孫たちとも合流出来たのですが、原発が再び爆発したため、主人の親戚を頼り茨城県まで避難することとなりました。
当時娘は妊娠8か月で、いわき市の産院にて出産予定でした。しかしいわき市は水が出なく出産が困難だったため新たな転院先を茨城県で探したのですが「被ばくしているかもしれない福島県の人は受け入れられない。敷地にも入らないでくれ」と受け入れを拒否されました。
そんな折、お嫁さんのお姉さんが群馬県に嫁いでおり群馬で産院を探してくれ、そこで無事第二子を出産することができました。嫁ぎ先のお父さんが不動産を経営されていたため、空いていたアパートに3週間間借りさせていただき、大変お世話になりましたが、家族と従業員で避難していた私たちは大所帯だったため、新たな避難先として息子が研修を受けた秋田県の社長さんが「着の身着のまま避難して来れるように」と、雇用促進住宅3世帯と生活用品全てを揃えて私達の避難を待っていてくれました。秋田県では平成29年4月に広野町へ帰還するまでの間、ずっとお世話になりました。
茨城県と群馬県、秋田県で避難した先では本当に皆さんから良くしていただきました。お米や野菜などを提供していただけたほか、避難先でも困らないようにと、様々な生活用品も用意していただき、感謝してもしきれません。
当時の思い出で特に忘れられないのが、草野小学校にて避難生活を送っていた時のことです。当時息子と娘たちの子供は合わせて4人。まだ小さく食べ盛りだったため、支給していただいた食料だけでは足りず、いつもお腹を空かせていました。避難してきたほかの人たちがカップ麺などを食べている光景を見ると「私たちもあれ食べたい」とせがむのです。しかし、何も持たずに避難してきた私たちには手持ちのお金も少なく、スーパーに行っても何も置いてないし、買うお金もない。悲しい思いをさせないようにと、食事時は外に散歩に連れて行っていたんです。そんな時、一人の女性が私たちに「避難してきたの?」と声をかけてきました。「私、あなたのこと知っているよ。商売をされていなかった?」と。
私が広野町でお店を経営していたこと、着の身着のまま逃げてきたことを伝えると、その方は財布から数千円を取り出し「私、あなたの店に買い物に行ってたの。良かったら生活の足しにしてね」とお金を渡してくれたんです。最初はお断りしたのですが「こういう時はお互い様なんだから良いんだよ。私はお陰様で家も流されなかったし、住む家だってあるんだから気にしないで」と言ってくれ「いつかお返ししたいので、お名前と住所を教えてくれませんか?」と言ったのですが、その方は名前も告げぬままその場を去りました。今でも思い出すたびに胸が詰まりますし、感謝の気持ちでいっぱいになります。
アイアイを復活させたいという気持ちだけで動いてきた5年間
秋田県で何とか落ち着いた生活を送れるようになった私たちでしたが、主人と私はまたアイアイを再開させるつもりで、週に3度ほど店内の清掃のため秋田から広野町まで日帰りで通いました。片道8時間かけ制限された時間の中で片付けをするのは本当に骨の折れる作業でした。最初は2時間しか立ち入りが許されず、その後4時間まで時間は延びたのですが、そんな短い時間の中でやれる作業には限りがありますよね。
本当は福島県内や近隣市町村に宿を借りて作業できれば一番良かったのですが、当時はどこも被災者の受け入れをしており満室の状態で宿が取れず、仕方なく日帰りで通いましたが、移動するだけで本当に大変でした。
ゴミは全て分別しなくてはならず、個包装されていた飴やチーズなども一つずつ全て手作業で開封し、廃棄する作業が続きました。当時は新入学のほか、お彼岸の時期でもあったのでおはぎの注文が多く、用意しておいた砂糖や小豆をバラす作業は腰が立たなくなるほど大変でした。
あまりにも食料品が多かったので業者さんに「持って行ってもらって構わない」と伝えたのですが「汚染地域からの持ち出しは禁止されているから」と配布することもできませんでした。
衣料品関係も箱に詰めて倉庫まで運んだりしました。制服などの注文品も多く、小、中学校はもちろん、JFAアカデミーの生徒さんたちの制服も一手に引き受けていたため、大量の衣類が残されていました。避難先からわざわざ取りに来られた方も居たのですが、大体が連絡が取れず、丈詰めしたものなので業者さんからの引き取りも拒否されたので、それらの支払いはもちろん、前金でいただいていた方への返金作業も重なり、とても苦労しました。
そんな折、復興作業に携わる業者さんから「事務所としてアイアイを貸してほしい」という連絡を何件も受けました。アイアイを再開させるつもりでいた私たちは最初全てお断りしていたのですが、東電関連の方が何度も足を運んできて「広野町はあと5年は人が戻りませんよ」と伝えられたため、店舗を貸し出す決心をしました。そのため、店内の冷蔵庫等も業者に依頼し解体作業を進め、倉庫も貸してほしいとの申し出を受け、箱に詰めた衣料品も全て廃棄し、店内と倉庫には何も残しませんでした。仕方のないことだったとは思いますが、あの時は悲しいという思いよりも、ただただ悔しいという気持ちしかありませんでしたね。
秋田で過ごした5年間と、広野町への帰還
平成24年の3月末、広野町の避難指示は解除となりました。本当は私たち夫婦だけでもすぐに帰町したかったのですが、C型肝炎に感染していた主人は定期的に通院を重ねており、薬を切らしたことで来院した秋田県の病院で肝臓癌が見つかりました。その際、秋田大学病院消化器内科の良い医師と出会うことができ、その先生から「一度癌を取り除いてもC型肝炎の患者は再発率が非常に高いです。しかし、5年間治療を続けると約束してくれたら、必ず癌を完治させます」と言ってくれたので、秋田での生活を決断しました。
5年後、すっかり癌も完治したのですが、散歩の途中で倒れた主人は原因不明のまま意識不明となり、平成29年の4月、帰らぬ人となりました。
避難指示が解除となってから私たち夫婦は月に一度、1週間程度広野町へ帰宅し「やっぱり広野はいいね」と二人で話しており「完全に帰還したらお世話になった人たちのために恩返しがしたい。また店を再開させよう」と話し合っていたのに夢は叶えることができず、無念だったろうなと思います。
私だけでもお店を再開しようとも考えたのですが、新たに商売を始めるための設備投資やスタッフの確保、年齢を重ねたこともあり、もう無理だな、と思います。お世話になった方たちに何の恩返しも出来ないまま終わってしまうのは申し訳ないのですが、未だに避難者の多いこの地域で、集客が見込めないままお店を再開させるのは大変困難なことだと感じています。
現在私は娘と共に自宅で町内の幼稚園や小中学校の学生用品を販売する仕事をしています。
自宅には息子夫婦と孫たち4人も同居しており、毎日賑やかに過ごすことができているのは本当にありがたいことだと感じています。
これからもお世話になった方々への感謝の気持ちを忘れず、自分がやれることを一生懸命やっていきたいです。
文 ・写真=S/T
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