坂本さかもと 光ひかる さん | 楢葉町

坂本さかもと ひかる さん | 楢葉町

有限会社南方工業所 専務取締役
出身:楢葉町

震災前と変わらない気持ちで、自分ができることをやっていきたい

楢葉町にある南方工業所は父が30年くらい前に立ち上げた、主に車や機械の精密機器を製造している会社です。俺自身は茨城県で就職したのですが、15年くらい前にUターンし家業を手伝っています。
震災前は町内で曾祖母、父母が暮らす母屋の隣に家を建て、妻と当時2歳の娘と一緒に暮らしていました。

震災当日、工場で作業をしている最中に地震が発生し、大きな揺れだったので稼働中だった機械も停電と共に全て止まって、真っ暗になった記憶があります。すぐにみんなで外に避難し、揺れが収まってから工場内の確認をしたのですが、物が散乱しぐちゃぐちゃの状態でした。
地震発生から30分後くらいに従業員を帰し、俺も自宅へ一旦帰りました。当時妻は4月に出産予定の第二子を身ごもっていたのですが、地震が起きたとき娘が自宅の2階で昼寝をしており、妻が娘を抱き外へ避難する際、ひどい揺れに階段を踏み外し転んでしまい、お腹を打ってしまったらしく、ずっと腹痛を訴えていました。
楢葉町に避難指示が出たのは12日の午前中。当時俺は消防団に所属しており、町民の自宅を一軒一軒まわり、取り残された住民が居ないか確認したのち、家族が避難したいわき市の中央台公民館へ移動しました。
俺たちがいわき市を出たのは22日。当時病院も水が出ない状態で、避難所で子供が産まれたら大変だってことで、千葉県で不動産を経営している親類に連絡入れたらちょうどアパートが空いていたので、そこを借りました。
妻は身重の体で震災にあい、色んなことでストレスを感じていたのでしょう。千葉県に避難した次の日に破水したので近くの産院に行ったところ、羊水が濁っているってことで急遽促進剤打って出産することになったんです。そのとき産まれた子供も今は小学校2年生になり、元気に生活しています。当時は大変だったけど、そんな苦労も忘れちゃいましたね。今が元気ならそれでいいじゃないですか(笑)。妻の出産後、当時被災者の受け入れをしていた君津市の借り上げ住宅に移動しました。そこには一年くらい住んでたかな。

事業再開といわき市での生活
震災後にリフォームされた楢葉町工場内部

父と母はしばらく千葉県で生活したあと、震災から3か月後にはいわき市に戻りました。震災前に部品を卸していた会社から事業を再開してほしいとの要望があったからです。そこで神谷にあった工場の一角を間借りして事業を再開させ、2012年には四倉の工業団地に設置された仮設工場で従業員を雇い、現在も営業を続けています。俺自身も一年間は週に一度千葉県といわき市を往復しながら仕事していたのですが、妻も「いわきだったら(生活しても)大丈夫だろう」とのことで移住を決め、借り上げ住宅に引っ越したのち2年ほど前に家を建て、現在に至ります。

避難解除と共に楢葉町でも事業を再開

 
楢葉町の避難指示が解除されたのは2015年9月です。町内にあった工場は天井や壁が剥がれぐちゃぐちゃの状態だったのですが、工場内の機械を動かさないと使えなくなるってことで建物をリフォームし、避難解除後運転を再開することになりました。
楢葉の工場は今、繁忙期を除き俺一人で動かしてる状態なんですけど、解除後すぐはコンビニも再開してなかったし、夜になると真っ暗だし、俺以外人影も無いしで、ちょっと怖かったっすね(笑)。今でこそコンビニや商店なんかも再開してきて町に人も戻ってきたけど、今度はいわき市に帰宅する車でかなり渋滞するんで、それはそれで大変ですね。
四倉にある仮設工場はいつまでも借りておけるわけじゃないので、いつかはそこも引き払い楢葉町に集約する予定ではいますが、従業員もいわき市の方ばかりなので、いざ楢葉で本格的に営業を再開となると、また別な課題が出てきそうです。

震災後の楢葉町に対する思いですか…俺自身は震災前と別に変わらないかな。去年から町で再開された「盆楽祭」では太鼓を叩いたり、知り合いから「町でイベントやるから手伝って」って声かけられれば可能な限り参加してるし。震災前とやってることは一緒なんですよね。今年は福島駅伝に選手として出場してほしいと言われたので町民グラウンドでみんなと一緒に練習もしてます。
ただ、俺には3人の子供が居るんですが、いわき市で生活しているうちに友達もたくさんでき、習い事なんかも楽しんでやっています。そんな状態なので、楢葉町に帰町することは現段階では考えていません。選択肢の一つではありますが、今は子供たちの生活が優先ですね。
今後も自分ができる範囲で楢葉町と関わっていけたらなと思っています。

2018年8月取材
文/写真:S/T

浪江町