NPO法人チームふくしま事務局長
宮城県出身
社員の気持ちと安全確保の責任との間で
私は宮城県の生まれですが、富岡町の叔父・叔母の家は小さいころから実家のようなところでした。卒業後、一度は関東の自動車メーカーに勤めましたが、20代半ばに富岡町に越してきて、設備機器メーカーに就職。その後、叔父・叔母との養子縁組を行いましたので、私にとって富岡は故郷と同じであり、とても大切な場所です。
3月11日に大震災がおきたとき、私は楢葉町の勤務先の会議室にいました。地響きとともに襲ってきた、とてつもなく大きな揺れ。社内放送で社員に安全を呼びかけようとしても、立っていられないほどでした。あちこちで倒壊音や悲鳴が聞こえ、そのうち頭上にもいろいろなものが落ちてきて・・・。あの時間は本当に長く感じましたね。
ほどなく津波の情報も入ってきて、家族を心配して帰りたがる社員が出始めました。しかし、まだ余震が続き、道路も寸断されている様子です。私は社員の安全を確保する責任がありましたから、帰宅させるかどうかは本当に迷いました。危険を感じたらすぐに引き返すよう念を押して帰すことにし、結果的に全員無事だったのは幸いでした。私もその晩、富岡の自宅に戻ろうとしましたが、国道6号は第二原発の手前で通行止めになっており、山道へ迂回してやっとのことで帰宅しました。
その晩は母と妻と二人の子供、家族がそろって一夜を明かしましたが、私は一睡もしませんでした。翌朝、町の防災無線で「川内村へ避難せよ」という指示を聞き、西へ向かったものの、道は大渋滞。そこで方向を変えて、南の広野町にある妻の実家へ行きました。しかし、避難指示の範囲がだんだんと広がってくるのがわかったので、その日のうちにさらに南のいわき市の親せき宅へ行き、そこで一晩お世話になって、13日に郡山市の親せき宅に避難したのです。
現実に押しつぶされそうな日々
郡山でも食料・水・ガソリンの調達は大変でした。開くかもしれないというガソリンスタンドの情報を聞きつけて、一晩並んだこともあります。また、私は会社で人事・経理などを担当していましたので、社員の安否確認から支払い、そして各町の災害対策本部や避難所まわりなど、やることが山のようにあって。とにかく必死でしたが、直面する現実に押しつぶされそうなときも正直ありましたよ。
まもなく私たちは、当面郡山で生活することを決めてアパートを借り、子供たちは4月半ばから、郡山市内の高校・中学にそれぞれ編入・転入することになっていました。しかし、私自身はちょうど同じ時期から、しばらく茨城県へ単身赴任することになったのです。ただでさえ多感な年ごろです。不安でたまらないであろう子供たちの傍にいてやれず、ひとり茨城へ向かうのは、とても辛かった。明日が娘の初登校という晩、何かあったら周りの人を頼るんだよと言い聞かせましたが、娘は泣いていました。でも、10日くらいして赴任先から郡山へ一時帰ったとき、車の中から、歩道を歩いて来る楽しそうな中学生の輪の中に娘がいるのを見たのです。ほっとして涙があふれてきました。
その後私は福岡県・大分県と異動しました。いずれも同じ設備機器メーカーの拠点です。私がもともと勤務していた福島の事業所は再開の目途が立たないことから、震災から1年9ヶ月ほど経ってその閉鎖が決定されました。やるせない思いはありましたが致し方ありません。そこで、家族を九州に連れてくるか、退職して家族のいる郡山で生活再建を図るか、という選択を迫られました。結果として、私は後者を選び、震災から3年の2014年3月末で20年勤務した会社を退職し、郡山の家族の元へ帰ってきたのです。
会社を離れるのは辛かったですよ。辞めたくて辞めるわけではないですから。でも、福島にいた社員のケアも一区切りついて、私には「やりきった」という思いはありました。このタイミングで福島に戻ることが自分の役目だと思ったのです。そして2014年4月から、家族と共に郡山での生活が始まりました。
地域のために、人のためになる仕事を
まずは仕事探しです。ところが、これまでのような企業人事・経理の仕事は、何かしっくりこない。応募しようとしても気が乗らないんです。私は当時48歳。これからまた一企業人として組織のために働くのではなくて、残りの人生はこの福島の地域や人のためになることをしたい――。そんな思いが自分の中で大きいことに気づきました。震災前そんなふうに考えたことはありませんでしたが、やはり震災、そして非常事態におかれた社員のケアを通して、私自身も変わったのでしょうね。
それで、国や地方自治体が主催する就労支援・人材確保支援の仕事に就き、1年半ほど経験したのち独立してオフィス・クリエイト福島を設立しました。
福島には、地域や復興への思いを持つ企業がたくさんあります。オフィス・クリエイト福島は、そうした会社の経営や管理業務のサポートを行うほか、企業向け・個人向けの各種研修も行っています。さらに、NPO法人チームふくしま事務局も担っており、復興のシンボルとして「福島ひまわり里親プロジェクト」を実施しています。これは、全国の「里親」さんに育ててもらったひまわりの種を、福島県内各地で植えてもらい、その過程で福祉雇用や教育、観光における効果を生み出すもので、全国で延べ25万人以上、1500の教育機関などに参加いただいています。
本当に大切なことってなにか
また、県外からの被災地研修で来福される学生等に、震災の講話や研修を通じて、福島の当時と今について感じ、考えてもらうことも行っています。この震災・原発事故の教訓を後世に伝えていかなければなりませんからね。あの日のことは決して忘れてはいけません。
しかし同時に、それを引きずってはならない。先をしっかりと考え、前へ進むこと。この震災に「区切り」を付けられるとしたら、その方向にしかないはずです。他人を責めていても何も生まれません。私たちは震災でそれまでの「当たり前」を失くしてしまいました。でもその代わり、ひとの温かさを知り、たくさんの素敵なご縁をいただきました。そのことに私は心から感謝しています。震災後の日々を通じて、本当に大切なことって何か、少しわかったような気がしています。
もちろん、現地で懸命に復興に取り組まれている方々には本当に頭が下がります。私は富岡を離れていますが、富岡町・浜通りへの思い、復興への願いは皆さんと同じ。私も今ここでできることをやり、できる形で関わっていければと思っています。
文/写真:中川雅美
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