山本 幸男 さん | 浪江町
出身:浪江町
津島から東京、そして浪江へ
うちは祖父もその前も山とか養蚕とかやりながら兼業農家だった。町議やったのは33歳の時から8期、32年間。この家では3世帯、7人で暮らしていた。
震災の時は引退してて、息子の代になっていたな(同じく町会議員)。
その時は、うちの工場の前にある家で、従業員と屋根を修理していた。従業員が上がって、俺はハシゴ押さえてたの。最初はハシゴがガタガタしてずいぶん風すごいなーと思ったのよ。そんでうちに帰ってきたら屋根は壊れてて、水道は破裂…電気も止まってたな。その晩は牛舎の事務所ですごした。子供と孫たちは車の中で。
12日に防災無線で避難指示が出て、山麓線(いわきー浪江線)がすごく車が渋滞してた。400mくらい走んのに1時間くらいかかってんだよ。いや、これではなと思って、わたしらは津島に親戚関係いっぱいあっから、裏道通ってそこに行ってお世話になった。4家族くらい来たから、津島の家族を含めてあらかた30人くらいはいたかな。
津島には2日くらいだな。その間、従業員と一緒に牛にエサやりに通ってた。大垣のダムの検問はそれまで「牛にエサ食わせでこねっきゃなんねがら」って言って通過してたのよ。そしたら水素爆発したか何かっていう情報があって、通行できなくなったな。津島に帰ってみたら、わたしがお世話になった人達がみんないないんだ、家の人達も。電話したら「二本松の市役所に行け」って命令下ったなんて。従兄弟のじいちゃん一人でいたの。「大丈夫だから、家の鍵は持ってっから、ここさいっぺ」って言うわけ。後から連れていがれたけど。まだあの頃は油(ガソリン)は半分くらいは入ってんだけんども、津島から牛に餌やりに通ってっから、少なくなってだの。「これじゃあ二本松に行くのも大変だなあ」と思うくらい。そして東京の息子のとこに行くことになったんだけど、途中、油がねえのよ。そしたら、息子が白河まで20リッター持ってきたの。わたしの親戚含めて3台で行ったんだけど、2台に10リッターずつ半分半分入れて、1台は待ち合わせしたドライブインさ置いて。行きは混んでて半日以上かかって朝8時っころ着いた。東京には10日ほどいたな。
東京さ着けば、何の心配もないから。わたしんところ兄弟二人いて、二人のところ分かれてお世話になっていたんだけども、わたしは牛が心配でどうしようもねえのよ。そしたら5日目んときに、息子が来て、「牛は牛舎から出したから心配ない」と。隣の牛も出してくれたと。それにしたって、5日間は食べず飲まずでなぁ。
そして白河に置いた車取りに行くのに市川の駅前に行って、代行運転というか、それを探してたのよ、そしたら行ってくれる人がいて白河まで来たんだ。そんで浪江まで来たら、よその牛で繋いだまんま死んでたり、放してやってもフラフラだったり。
そんときに浪江で会ったのがアメリカのメディアと週刊新潮と、高田先生(注1)という札幌医科大学の教授。放射線関係は一番詳しい先生なんですよ。そして牧場が週刊新潮にも2回ほど大きく出たらその反響が大きかったんだよね。
研究会
以前議長会で知り合った香川県まんのう町の議長さんと、飼料用の竹粉の社長さんが震災後に電話よこしたの。来たってしょうがないと思ったんだけど、その札幌医科大学の先生も来るっていうのよ。じゃあ、小さいけども、うちの仮設さ泊まれって言ったのよ。
それ以来、何回となく北海道からも、香川からも来て、そうして研究会(注2原発事故被災動物と環境研究会)がはじまった。それから高田先生から東京でやる発表会に呼ばれて、講演みたいの出たり。わたしは会津弁で喋ってっから、話したのわがんのかなって(笑)。そんなことで、ずーっと(牛の被曝の)研究続けて、岩手大学・北里大学・東北大学と加わって。
研究会は2012年の9月に設立した。当時はね、農林省のお役人なんかもいっぱい来た。高田先生は、避難指示に関しては1日のうちに1番高い数値を基準にしながらという考え方はダメと。来る途中の飛行機の方がかえって線量が高いし、日本は自ら風評被害を煽って原発避難地域を宣伝しているようなもんだって言ってた。ここは十分生活できる地域だと。このへんはまだ高いとしても(線量)、原田くん(注3)のところなんか、われわれが避難していた二本松のところと同じなんですよ。人住めるんだから。そういうところの牛までダメだっていうのな。
仮設から南相馬へ
東京から戻って半年は裏磐梯のペンションにいて、二本松の仮設に入ったのは11年の9月。そこに5年間いて、言われて自治会長なんてやらされてよ。なんだかあの当時は、同じ浪江町といえども、知らない人多いから、そのストレスは溜まってくる。何あったって、誰が悪い、あれが悪い、何でもかんでも会長って。だんだん人もわかってきたけど、最初はどこでもみんな苦労したと思うよ。その間、森まさこ議員も2回ほど来ていった。弁護士の卵だっての2人と仮設に泊まりたいって。それも経験なんだべ。そういうことで5年間いて、今は南相馬に住んでる。
平成建設
建設会社始まったのは、牧場で大きいトラック買った、ダンプ買った、ブル買ったって、重機を買って山仕事やってるうちに自然と建設になっちまったのよ。周りの人は「こんだけあるんだったら、分けてやったほうがいい」って言うんから。そうしているうちに、役場で食堂の入札にまざれって言うのよ。どうせやったって仕事ロクにもらわんにぇんだからって言ったんだけど、んじゃあ山本牧場建設ではあれだから、名前変ようと思ったの。そんで小渕官房長官が平成って書いた日に、おれは『平成建設』って立ち上げたの。当時おれは議員で社長できねえから、おっかあが社長。そして、息子も一人前になってきて、息子を社長にしたら今度、息子も一年で議員になって、じゃあ今度は親父、なんて言われたげんちょも、もう年だがら嫁に社長やらせたんだ。
牛を生かし続ける農家
震災のあと、牛を生かしてたところは10人くらいいたよ。原田くんとこは最近までやってたんだけど、除染も始まって、やめることになって、安楽死させたのもいるし、一部は渡部(注4)さんの小丸共同牧場にいったのもいる。今は浪江では小丸とわたしんとこと吉沢くん(注5)のとこだけだ。研究会に残ってるのは、今はわたしと渡部さんと大熊の池田さん。実質やってるのは3人だな。
吉沢くんはね、研究会さ入らねってのは、事務所さ入ってるひとの関係もあるんだげども。例えばちゃんとした被曝の影響を研究するには、安楽死させて牛の内部を研究しねっきゃいけねえのよ。それに同意できねって。亡くなった親父さんのころから知ってんだけど。吉沢くんは人は良いやつなんだげんと、思想が違うからなあ。でもこういう牛を生かすためには同じなんだ。牛の餌を県外から、宮城かどっかから持ってきてって騒がっちゃべ(注6)。汚染された牧草始末すんのに相当お金かかっぺし、こっち持って来れば、餌なくて困ってる牛に食わせてやれてお互いに良いんですよ。それを町が文句言うこと自体がおかしいって役場さ言ったっただ。出荷しない牛なんだし。吉沢くんは面倒見も良くて、前は機械ぶっ壊れたなんだって言えば、あのへんの酪農家はみんなお世話になってたの。
牛を生かし続けること
なぜ牛をやっかって言ったら、やっぱり牛は家族同様だから。共にこうしてね、牛を支えて恩恵を受けて今日があるわけだから。宮崎の口蹄牛みたいな伝染病だらばそれはしょうねえよ。ただ野馬追の馬は文化財だからっていって3匹も持っていって生かしてる。でも一緒にいた牛は殺すって、そんなことでぎねえ。浪江でも12箇所だか13箇所だか柵を作ってな、殺処分に同意したとこの牛は殺した。安楽死ったって無理やり殺すから。母親のおっぱい飲んでるこどももな。そしてダンプさつけで持っていくだ。それをビデオさ撮ってあんのよ。外国のメディアに見したら映像使いたいっていったんだけど、見んのはいいけど、外国さは持っていぐのはダメだって言ったの。日本の恥になっから。
帰還困難区域も出入りするようになっと、牛で交通事故おきたり、人様には迷惑しないようにして飼い続けてきたの。そういう(飼っていた)人は何人かいたんだんだけど、遠くから通ってはできなくて、泣く泣く殺処分に同意した状況なのね。知らない人は「お金もらってっからやってんだべ」ってこう言うわけだ。実質、もらってるわけでもねえのに。本当はね、研究してる大学機関にだって国が援助しねっきゃなんねえの。世界でもここにしかねえ場所でやんだから、研究費だしてやってくださいっていうべきなの。大学の先生だってよ、土日ボランティアなのに、牛の安楽死にくる県職員は、イラクに自衛隊派遣したとき以上にもらっているっていうんですよ、帰還困難区域に来るからっていう理由で。チェルノブイリでは、一週間で犬、猫、全ての動物を一緒に移動させたんだって。あの時、日本だってやる気になればできたんですよ。それなのに、あんなことになっちまったわけだ。そしてそれ以上にお金をかけて、殺したりな。
大学機関だって、大学の先生はボランティアでもいいよ。論文を書いて教授になるなら。われわれは何ひとつ… ただ餌は最初のほうだけ面倒見てもらった。運賃ぐらいはこっちで出してよ。あとは、自分で調達してやってんの。だから半端でない餌代かかってんだ。1日牛1頭に1,000円かかったらよ、30頭いたら30,000円、50頭いたら50,000円かかるのよ。そうすると月150万かかるわけだ。そういう出費をしてるけれども、生き物を大事にしたり、先祖様を大事にしてっとよ、こっち側で損しても何かで報われるんだって思うんだ。必ずその見返りはくるという感じはする、すべてのことにおいてだ。
牛を使った環境保全
そういうことで牛は殺さんにぇと。自分で面倒見ると。なぜ牛かっていったらね、俺んとこを見てわかるとおりに、牛を放牧するのに、山を含めて20町歩ほどやってるんですよ。山に入って草を綺麗に食べてもらってんの。これは綺麗ですよ。誰も手入れのできない山を、牛が手入れをしてくれる。山は綺麗にすんのに時間かかるわけだから、いまは損してもうまくやれば50年~100年後にはそれ以上の報いはくるなって思うんですよ。牛は土手でも道路でも線路でも、みんな(生えてる草は)食べるんですよ。限界集落だ、耕作放棄地だ、年寄りばっかりで若い人たちは出ていく、そうすっとこういう放牧場をやって、自然を綺麗にしながらやってもらうには牛の他にないんです。浪江町では、田んぼ二千町歩、畑一千町歩、あわせて三千町歩の農地あんですよ。なんぼ野菜作る、果樹やるって言っても、全部の農地を再開できるわけない。それを管理するには畜産なんですよ。まあ場所にもよっぺけど。ニュージーランドさ行ったって、デンマークさ行ったって、スイスさ行ったって、ああいう山岳地帯はこういう牛の放牧やってて。ああいうのを真似なきゃなんねんだ日本は。そして環境保全な。綺麗になってくれば、「おれのうちも、こんなんになるんだったら帰ってきたい」って思うのであれば、その気持ちを起こさせるためにも、やっぱり頑張んねっきゃいけねえなあと思っていんのよ。
浪江町について
天命・天保の時代(飢饉)には、相馬藩は1/3~2/3は死に絶えたんですよ。その後、“相馬よいとこ”って言って、加賀や越後や西日本から移民が来て今日の相馬藩が繁栄してきたんですよ。昔は食わんにぇで死んでいったんだけど、今は仮設ではよ、文句も言い言い、酒飲んだりうまいもの食べたりな。
やっぱり自分の地域は自分でやるべきですよ。片付けでも草刈りでも、自分でもできるのに東電にまる投げしたり、今やんねえど解体料かがっからって、立派なうちまで壊したり。みんなよそに行って家作ってっぺ。そうして家を作ったら金もなくなる。それでだんだん浪江のほうもいよいよ復興して来るから戻りたいっていうときは、もう遅いんだど。
人口が少ないと税収もない、固定資産税も上がんね、だけんども、これは町から山の方へだんだん上って復活してくる。復活してくれば、今度はこんなにいいところないですよ。もとになるには30年、40年はかかっと思う。んだげんとも、浪江は浜通りの中心なんですよ、港にしたってね。これから浜通りの繁栄ができてくるんでねえか。いろいろな面でメインが(中通りから)こっちになっていくんじゃねえかなっては思う。復興大臣・吉野さんが出てっからこそ、いろいろの面でよ。あれは全国の大臣というより、いうならば地域の大臣なの。ああいう人に頑張ってもらえればな。
注1 高田純さん(札幌医科大学教授、放射線防護情報センター代表)
注2 一般社団法人 原発事故被災動物と環境研究会
注3 原田良一さん/震災後牛を生かすために水田放牧「命の楽園プロジェクト」を始める。
注4 渡部典一さん/小丸共同牧場代表/インタニューページはこちら
注5 吉沢正巳さん/希望の牧場代表
注6 2015年10〜11月、宮城県白石市が、保管していて処理にめどが立たない汚染牧草約1100ロールを、希望の牧場に提供した。
文/写真:平山"two"勉
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