池田いけだ 美喜子みきこ さん | 大熊町/双葉町

池田いけだ 美喜子みきこ さん | 大熊町/双葉町

専業農家
出身:大熊町/双葉町

大熊で牛を飼い続けること

 私の実家は双葉町の農家で、同じく農家の主人と結婚して大熊にきました。主人は勤めながら兼業で、わたしが専門で。主人の親と私たち夫婦ですんでいました。子供二人のうち、息子は大学生で、その時は学校に、娘は病院に。わたしは結婚が遅かったから。大熊での生活はまだだいたい23年くらいかな。36年いた双葉の方が長かったですね。

 震災当時は、牛は親子で、31頭いました。最初の地震が来たのは、家で確定申告の書類をまとめていた時。会社に行っていた主人が帰ってきたのは18時過ぎ。その時は余裕がなくてとにかくずっと家の中にはいた。その辺のものがみんなひっくり返ってて。外では擁壁が倒れちゃって、川をせき止めちゃったんですよ。だから、もう、牛小屋の方がびしょびしょ。水位が上がっちゃって、20〜30cmくらい。だから、役場に行って「水を止めてくれ」って言って。夕方には止めてくれました。
 その日の夜は停電だったので車の中で過ごしました。でも主人が帰ってきた時に双葉は電気ついてて、大熊の端っこから消えてるみたいだと。双葉は電気きてたんですね。うちの実家って、双葉と大熊の境なんですよ。だから、夜に「どれ、何か食い物もらいに行くべ」って行ったら、実家はちゃんと電気ついててテレビ見てた。

 避難指示は最初わからなかった。夜に車のラジオ聞いてて、「(イチエフから)3km圏内は立ち入り禁止」だとかなんとか言ってるのは聞いてたけども、避難しなくてはいけないということ自体は知らなかった。だから、(3月12日)6時に防災無線で「地区の公民館に集まりなさい」って言われて、地区の人が集まった時、聞いたら「東電あぶねがら避難しんだしけ」って。初めてそのとき教えられました。
 主人はそのとき牛にエサ食わせてて、会社に行くって言うのね。休みって言われてないと。でも「あそこ3km圏内じゃない?」って言ったら「ああ、ほうか。んじゃ、行がねが」って。そんな程度だったの、うちは。
 それで、公民館から戻ってきて「東電あぶねがら避難しんだしけ」ってうちの人に言ったら、「んじゃ、エサまんと食せっか」って。わたしはまた公民館に戻って、バスで避難だって言われたのに10時くらいになってもバス来ないんですよ。最終的には、ワゴン車で、四駆で、スタットレス履いてる人で、出せる人は出してくださいって言われたの。で、うちはそうだったから「出します」って言って。でも「自分家の家族だけじゃなく、隣近所の人も乗せてください」って。それで請戸から津波に遭って避難してきてた親子もいたから、あわせて8人で船引の総合体育館に避難しました。

 わたしの実家の親は一回避難したんだけど、父が体が弱いので、津島で車の中で一晩過ごしたら、「おれは避難生活耐えられね」って言って、双葉の実家に戻っちゃったんですよ。別に電気もきてるし。そこで、母親と二人で20日までいたんですよ。同じ部落の中でもうひとりいたんで、最終的に3人。でも、ほとんど連絡も取らないでいたんですよね。父親は20日にテレビで原発が爆発するのを見て、「いよいよ終わりだな」って言って、近所の母ちゃん連れて、3人で出てきたんですよ。それで、田村の体育館に一回来たんですけれども、スクリーニング受けられなくて、郡山までいってスクリーニング受けたのがわかって、わたしたちも郡山に行って合流しました。
 その前に、田村の体育館では、主人の母親は体育館では多分ダメになると思って、相模原にいる姉のところに頼むのに、高速バスは走っていたんで、郡山から送り出しました(後日迎えに行く)。わたしたちは、実家のほうの親にくっ付いて歩いて、北塩原、喜多方、白河それでいわきへ。主人は借り上げで白河に行ったんです。その後、四倉の会社のアパートから、好間の仮設に行って、年末には広野の借り上げに引っ越しました。仮設には母親だけ置いて来たんですよね。
 主人は2011年7月から会社に戻りました。わたしも7月から年内いっぱいは白河で仕事を。
 今は広野に家を建てて住んでるんだけど、最終的には富岡にいきたいなと。
大熊は下野上が復興拠点だからうちのほう解除になるみたいなんですよね。でもあの除染見たら「帰んなくていいな」って思ったの。全面的に綺麗になるんじゃないから。それにいつか免許返納したときのことを考えると、店とか医者とか。歩いていけるところに住まないと。

 2011年5月11日、殺処分同意の通知がきました。でも、他町村ではその説明会をやったんですけれども、大熊の場合はなんにもなかったんですよ。だから、うちの人が大熊地区の畜産部の副部長だったんで、役場に行ってきいたら説明会はなしと。「だったら、自分でやるしかないな」って家畜保健所の場所とかそういうの借りられるかどうか聞いて動いたら、役場でそのうち説明会やるってなったんです。そのときは20人くらい来たんじゃないかな。最終的には、噂では、同意しないとお金もらえないって言われて同意した人もいるみたい。でも県の畜産課の知り合いに聞いたら「そんなことはない」と。大熊で同意しなかったのはうちと、谷(さつき)さんが同意撤回してもらった2軒かな?
当時、うちの囲いの中には、同意した人の牛が入ってきちゃったりしてたのね。それで「殺処分始まってどうすんの?」って聞いたら、「生かしててもらえるなら生かしてもらいたい」って言われたけど、最終的にお金も絡んでくると思うんですよね。そのときはただ生かすだけだけども、エサ代もかかってくるから。だから、そういうことも考えて「いや、うちでは預かりきれない」って、みんなお返ししましたね。返された牛は殺処分に。

 最初の一時帰宅は6月にバスで、そんとき戻ったら牛は生きていてそのへんウロウロしてました。2011年の秋頃から、最初は月1回、それから1週間に1回、日曜日に来てエサやり始まって、年明けはもう1日おき、2日おきに行き始めました。そして、2012年4月に、放れていた双葉の実家の牛20頭も合流しました。大熊にたどりついたのもいたから。

2013年、谷さんが12頭預かるってことになったけど、場所がないのでそれまで吉沢さんが浪江で預かったのね。エサは最初はね、あったやつを食わせてたでしょ。あとは、知り合いのとこからもらってきたり、あとは研究会で調達してもらったり。で、いよいよ無くなってきたときは自費で買いましたね、うん百万円。

 多い時は放れ牛が入ってきたりして2012年に80頭になった。そういうのは返してやったり。研究会の先生たちが入ったときは、堕胎なんかもしたんですよね、増やさないために。そのときは63頭だった。そして、見たら7頭くらい妊娠牛がいて、70頭になるって言われて覚悟してたんだけど、だんだん、弱い牛は減っていって。子牛が負けるんですよ、とにかく、食べられなくて。それで先生に群れをわけろっていわれて。隣近所の畑もみんな借りてたから、それを3つに分けたら死ななくなった。

 野上地区は除染の計画が出て、牧場も除染の対象になった。でも今は、牛がいるところだけはまだやってない。最終的にはするけども。
今は2haで29頭います。エサをやりにいくのが、いつもは2人なんですけど。主人とわたしと実家の下の兄貴の3人なんですよ。結局誰かひとり欠けたとき、3箇所やるのがたいへんじゃないですか。除染したらそこに牛も入れられないし、地代請求されても困るから、数を減らそうっていうことで、ひとりでも出切る範囲でやろうってことになって、減らして29にしたんです。除染しなかったら飼ってたね。

 解除になったらうちはみんな牛いなくなると思うの。うちは町の中心部に近いじゃないですか。だから、飼い続けるってことは不可能だと思う。最終的には研究会もなくなるから。先生たちも自腹だし、続かないと思う。

 死んでしまった牛は自分ちの土地に埋めてあります。最初はね、病気とか解剖っていうと涙止まんなかった。でも数を減らさなきゃいけないって思ってからは、向き合ってますね。せっかく生きてたんだから、先生たちが来ないときにただ死んで、埋めちゃったんでは何にも役に立たない。だったら死ぬ前に先生たちに解剖してもらって材料持っていってもらうほうが役に立つから。

 白い斑点は斑点じゃないのね、鱗毛(りんもう)って言うのがあったんですよ。それがうちも出てるのね。震災前からそれはあって、先生はストレスだって。調べるとその部分は色素がないっていうのね。強いのは強いのなりのストレスがあるし、弱いのは弱いのなりのストレスがあるから。うちも7〜8頭くらいいる。

 牛がいるところはみんな踏んづけちゃうから、もう6反~8反分は草が生えない。一町歩だけは計画的に仕切ってるから、そこだけは生えてるけど。だから、年間通してエサ代は同じ。ここ1〜2年は、川内の人が安く、タダ同然で提供してくれてなんとかやってます。でも今年は除染で少し種(牧草の)撒いてもらったから、多少は生えるでしょう。

 町とか国とか東電とかに望むことは特にないね。ない。諦め。極端に言うと、接触したくないんだから。何言っても無駄。だから、最初は文句があっても、なんの揉め事も知らないふりしてました。許可証がでなくなったら困るから町にも何も言わなかったし。

 でも、最近は言ってるかな。公益立ち入りの場合、9時前はバリケードの前に一分一秒でも止まってダメだって言われたのね。一時帰宅の人は止まっていいと。バリケードの前で追い払われることもあった。最初は文句言わなかったけど、町政懇談会とかあったときに言ってやっりました。「なんで自分ちさ帰んのに、そんな事言われなきゃなんねんだ」って。

2017年12月取材
文/写真:平山"two"勉