松本貞男さん双葉高校同窓会会長/元双葉高校校長

松本貞男さん
双葉高校同窓会会長/元双葉高校校長

「葛尾村から教育の道へ」

私は生まれも育ちも葛尾村です。葛尾中学から双葉高校に進学して、高校時代は双葉町に下宿していました。高校卒業後は福島大学に進学し(生物専攻)、大学卒業時は教師は狭き門だったので、一度日産自動車に入りましたが1週間でやめちゃって、今度は知り合いの紹介で、県庁の農政部に入ったんですけど、それもまた1週間で辞めてしまいました。

その頃、大学の教授に「せっかく教育学部でたんだから、お前は先生になれ」と言われて、西会津高校に非常勤講師として就職することができ、その2年目に教員試験に受かって正式に南会津高校に採用になりました。そこにいる間に父が病気になったことで、浜の方にいきたいと希望を出したら、すぐには空きがないといわれて、県北の保原高校に赴任(5年間)し、そして昭和54年に母校の双葉高校に異動となり、葛尾に帰ってきたんです。でも父親の死後は、浪江に家を建てて移り住みました。

「母校へ着任」

保原高校当時はソフトボール部の顧問を3年間やっていて、後に野球部の顧問がいなくなったんで野球部の部長をやってたんですよ。その経験もあってか双葉にきてからも野球部の顧問で部長になり、故・横田誠樹監督(*1)と一緒にやってました。そして幸運なことに1980年(昭和55)に県大会で学石に勝ち、優勝し甲子園出場(*2)となったんです。あの時は素晴らしい生徒達に恵まれ、甲子園で校歌を聴くことができたのは感無量でしたね。人生の中で1番の思い出です。

「その後の足跡 相馬海浜自然の家(指導主事)→相馬農業高校→福島中央高校(定時制/教頭)→富岡高校(教頭)→→いわき海浜自然の家(所長)→川俣高校(校長)→双葉高校(校長)

最後は2005年(平成17)に校長として双葉高校に戻ってきました。ここで3年勤めて定年だったので、やはり母校への思い入れは大きいです。

(*1)横田誠樹監督/1980年(昭和55)に双葉高校を2回目の甲子園に導いた監督。2010年10月12日逝去

(*2)第62回全国高等学校野球選手権大会

1回戦 ○双葉(福島)3-1川内実業(鹿児島)
 2回戦 ●双葉(福島)5-7札幌商業(南北海道)


「蕎麦作り」

それからは自分の時間がもてるようになったので、教えてもらいながら蕎麦作りをはじめたら土に触れるのもいいなあって面白くなってきたんですよ。葛尾に土地が30アールくらいあったものだから、浪江から通って蕎麦の栽培をやってみたら、もともと田んぼだったところが国道399工事の土棄て場になって、それから畑にしたもので1~2年目はなかなかうまくいきませんでした。でも3年目の秋は収穫が良く、葛尾の石臼蕎麦打ちの会で色々習ってたので「貞園ふぁ~夢」と名付けてやってみようかなという時期に震災がきたんです。そこでは蕎麦だけじゃなくて椎茸とか色々作ってみようかとか準備していました。古い家は壊して、二階建ての倉庫をリフォームして風呂や台所などを作ったり、井戸掘ったりして、だいぶ改装にお金かかったんですよ。浪江の家も退職したあとリフォームしたし、まさにこれからという時にあの大震災があったのです。

「震災後の避難」

震災当時は白河でゴルフをやる予定だったんです。そしたら雪でクローズになっちゃたんで、いわきのゴルフ場に変更となり、プレーが終わって帰ろうとした時にあの地震が来ました。その後いわきから浪江まで帰るのも大変でした。ラジオで大津波警報がでたのは聞いてて、6国から山道通っても結構渋滞してたり、反対側からくる車に6国の大熊のあたりで橋が落ちたとかきいて、途中から山麓線(35号)や288号を通って、なんとか浪江まで帰りました。普通1時間くらいで帰れるのが3時間以上かかりましたね。自分と一緒に帰ってきた人は途中ではぐれて、10時間くらいかかったそうです。帰ったら家の中はメチャメチャでしたが、水道も出たし、電気もきてました。少しづつ片付けて明日またやろうと12時くらいには寝ました。

次の日朝6時に西の方に避難してくださいっていう町の防災放送があって、原発で何かあったのかと思いつつ、とりあえず乗用車じゃなくトラックで葛尾に行って、椎茸の原木を山から運ぶ仕事でもしようと思ってました。夕方には戻れると思ってたんですけど、そんな大きな事故になるとは考えられませんでした。それで親戚の家に立ち寄ったら、村会議員の従兄弟がきて「ここにはいられない」というわけです。それで夕方に皆で三春の若松屋旅館に立ち寄り、すでに富岡や川内の人でいっぱいだったんでけど、雑魚寝でもなんでもいいからと頼み込んで泊まれることになりました。自分達家族は家内の実家の郡山まで行きました。

その後、母親を一旦東京の妹のマンションに預けたんだけど、半年過ぎたら戻りたいってきかないので、郡山の家内の実家に再度お世話になった後、三春の中古住宅を買うことができて5年くらい住んでました。当時母親の認知症が進んできたので、「三春の里みどり荘」にデイサービスに通ってたんですが、症状が進んで、本人から家族にに迷惑をかけるから施設にいれてというので、三春の施設に入居しました。今は98歳になって私のこともわからなくなりました。そこから家内の希望もあって、郡山に今の家を建てて6年目になります。

「双葉高校同窓会」

創立90周年記念式典(*3)の時に歴代校長ということで出席して、その後に当時の同窓会会長が引退して、いわきの支部長が引き継いだんです。その時に副会長をやれということで引き受けました。そして今度は休校記念式典(*4)があって、それが終わったらまた前会長さんが引退するので後をやってくれと頼まれて、やむなく会長を引き受けたわけです。

双高の休校(*5)については、生徒も減り、11人(当時)しかいないのでは残念ではあるけど止むを得ない状況でしたね。でもこのまま廃校にされてしまうのは卒業生、関係者は皆んな納得できないので、あくまで休校ということだと県にも確認したんです。それでも100周年記念行事をやるのは、5〜10年ではないにしても、いずれは母校が復活できるように団結しようという意味もあります。

でも行事をやるには、卒業する時に5千円の入会金を取るだけだったのですが、震災後は入会金は徴収しなかったし、休校になって入ってこなくなり、予算が足りなくて結局は募金活動をしなければならなくなったんです。

今回も最後に発行した平成18年の同窓会名簿をもとに一口5千円からで募ったんですけど、何せこの混乱の中で時間も経ってるし、住所が変わって転居先不明だったりで、かなり、発送した趣意書の郵便が戻ってきてしまったんです。なかなか募金が集まらないという状態ですね。卒業生の数は1万八千人くらいなんですけど、かなりの物故者もおり、今は何人いるか調べようもないんです。それでも多額の寄付を送ってくれた方もいるし、亡くなった方の家族が送ってくれた人もいました。ありがたいことです。

同窓会っていうと年寄りの集まりってイメージなんですけど、若い人たちとの交流、繋がりがないので、そういうのをもっと盛んにできるようになればいいなとは思ってるんです。クラス単位では同級会とかやってるはずなので…。同窓会東京支部には避難してから支援金をいただいたり、随分お世話になったんですよ。クラス会とかやると少し援助金を出してもらったり。

「双葉高校創立百年記念式典」

実際は令和4年で百年目なんですが、双高の場合は創立何周年ていうのはその翌年にやってきたんです。今回は令和5年の10月8日にやることに決まりました。場所は次の実行委員会で決まるんですけど、実は双葉町と共催でやることになったのですよ。式典はやっぱり地元の双葉町でやることになるのではないかなと思ってはいます。予算や方法はこれから検討します。

式典の名称は百周年記念の「周」を取って創立100年記念にしようってことになってるんです。「周」ってつけると今も生徒がいるかのような感じにもとられるし。

こういう記念行事があると、だいたいは後輩たちに色んな施設や、設備、記念碑などを送ったり、あるいは育英資金みたいに生徒を支援する制度をつくったりするものなんですけど、今は肝心の生徒がいないんで、バトンタッチできないのが残念ですね。

行事としては式典と「百年記念讃歌」という歌を作ってCDにしようかなと計画してます。作詞は太宰治賞をとった志賀泉さん、作曲は90周年の時に来てくれた渡辺俊美さんのOB二人に頼みました。どちらかというと新しい感じの曲調がいいと思ってね。あと色んな年代の同窓生に原稿を頼んで、創立百年記念誌を編集してるところです。

(*3)県立双葉高等学校創立90周年記念式典

2013年10月12日/いわき明星大学児玉記念講堂。同年9月19日/記念コンサート/いわき市芸術文化交流館アリオス

(*4)双葉高等学校休校記念式典「双高のつどい」2016年11月5日 /いわき明星大学児玉記念

「双葉郡の高校」

ふたば未来学園が郡の南端にあってね、北の方はないので、これから人口が増えてきたら、いつか双葉か浪江のどこかにも高校があってほしいと思ってます。町の小中学校が少しづつ戻ってきて、中学から高校に上がる時に、地元に高校がないのは寂しいので。以前は浪江からでもいわき方面に通ってる子もいたんでどこでも通えないことはないでしょうけど、近くにあって欲しいというのは理想です。今は夢かもしれないけど人口が増えていけばね。地域には学校というものがないと繁栄しないんです。広野から小高の方まで、双高の卒業生はたくさんいて、地域を支えてきましたから。

(*5)双葉郡にあった富岡高校、双葉高校、双葉翔陽高校、浪江高校、浪江高校津島校の5校は、2017年3月をもって休校となった

「これからの双葉郡」

各自治体で色んなハコモノができていくんだけど、それがこれからどういうふうに生かされて維持していくのかっていうのは課題ですね。震災前から双葉郡は合併して双葉市になればいいって思ってる人は沢山いましたよ。この先、復興のお金がいつまでも出ないでしょう。それぞれが自立してやっていけるのか、一つにならないとやっていけないんじゃないかとも思います。