重富秀一さん /JA福島厚生連双葉厚生病院院長
【震災まで】
私は中通りの二本松で生まれました。福島高校から福島県立医科大学に進み、卒業後は福島医大第三内科に入局しました。1976年(昭和51年)から約20年間、大学の附属病院で診療を行なうとともに、学生の講義、高血圧、内分泌、腎臓病、糖尿病に関する研究を行いました。1997年(平成9年)に赤沼先生(前院長)の後任として双葉厚生病院に着任しました。子供達がまだ学校に通っていたこともあって単身赴任のような形で生活していましたが、週末や学校が休みの時は家族がよく双葉に遊びにきていました。院長に就任してから震災が起こるまでの14年間は双葉町に住んでいました。2011年3月11日の午前中は外来でしたが、診療後に双葉厚生病院と県立大野病院の統合(*1)について、福島民報の取材を受けました。県や町村の方々と何年も準備してきて4月1日に新病院が開院すると直前に震災が起こりました。新病院の名称を一般に募集し、「ふたば中央厚生病院」という名前も決まり、職員への内示も通達したばかりでした。
あの日は、所用があって上京することになっていたので、取材のあと病院の車で福島に向かっていたのですが、山木屋の信号で停まっている時に大きな揺れがきました。民家の屋根瓦が落ちたり、土手が崩れたりしたのが見えたので、これは大変なことだと感じ、病院に引き返ししました。
戻る途中の道路は損傷が激しく、迂回しながら病院の近くまで行きましたが、6号国道の前田川に架かる橋のところに大きな段差ができていて車が進めなくなったため、作山機械(今のふれあい広場)の駐車場で車を降り、そこから歩いていきました。病院に着いたのは17:30頃だったので3時間くらいかかったと思います。(通常約1.5時間)地震発生直後から私が戻るまでの間、副院長や事務長、看護部長など職員みんなが懸命に頑張って患者さんの避難誘導を行なっていました。病院の建物は被害を受けましたが、診療の継続は可能でしたので、直ちに救急患者を受け入れる体制を整えました。夕方くらいから津波等でケガした方が増えてきたので、外来ホールに簡易ベッドを用意し治療にあたりました。
大野病院で仕事をしていた職員も合流し、翌朝まで不眠不休で診療を行ないました。非番の職員も駆けつけてくれました。大野病院とはしばらくの間は電話での連絡が取れていて、翌日からは連携して治療にあたるつもりでいましたが、そのうち電話が繋がらなくなってしまいました。あとで知ったのですが、12日の朝にはすでに大野病院の患者と職員は避難を完了していたそうです。
【病院避難】
3月12日の早朝、玄関ホールで対策会議をしている最中に、防護服を着た警察官が病院に入ってきました。念のために病院から別の場所に避難するように言われましたが、詳細な理由は説明されませんでした。病院の外には自衛隊員と自衛隊車両が控えていました。その時は原発が危険な状態にあるとは思わなかったし、重症者や寝たきりの患者さんもいたので「避難は出来ないと」一旦は断りました。現地の情報が入ってこない状況の中で、押し問答をしているうち、テレビから炉心溶融という言葉が聞こえてきました。衝撃的な言葉だったので、もしかしたら原発で事故が発生したのかもしれないと思い、万一を考えてまずは自力で動ける人の避難を決めました。35人の患者さんが自衛隊の車で病院を出発し、原発から10km圏外にある浪江のオンフール双葉(特別養護老人ホーム)(*2)で降ろされました。その後の混乱の中で彼らとの連絡がとれなくなって心配したのですが、後になって、いわき光洋高校に運ばれたという報告を受けたときはホッとしました。
第一陣が出た後に、屋内退避するよう指示が出て(いま思えば、ベントが行なわれていたため)、3時間くらい病院の中で待機しました。その後、自力で動ける人たちを職員が同行して送り出し(川俣の鶴沢公民館に避難)、重症の寝たきり患者さん40名と職員56名の96人が病院に残りました。あとはそのまま病院に留まって状況が落ち着くのを待つつもりでいましたが、県の災害対策本部に詰めていた田勢先生〔田勢長一郎/福島医大教授(当時)、ふたば医療センター附属病院初代院長〕から電話が入り、原発が危険な状態なので大至急避難するように言われました。すでに町には人影がなく、避難する手段がないことを伝えると、自衛隊の救援ヘリを7台派遣する、と約束してくれました。間もなく自衛隊員が救援のため病院に来てくれました。それから、救援ヘリが着陸する双葉高校グランドまで、自衛隊と警察と職員が協力して患者さんを搬送しました。搬送の途中で最初の爆発(一号機の水素爆発)に遭遇しました。
【双葉高校からヘリで脱出】
15時36分、ドカンという爆発音が轟きました。南東の青空に白煙が立ちのぼり、空中から白い粉か破片のようなものが降ってきました。その時はまさか原発の事故だとは思ってなくて、どこかで火事がおきてプロパンガスのボンベが爆発したくらいにしか思いませんでした。原発が爆発するわけがないと思っていたのです。あの年の1月、日立の工場を訪問する機会があって、製造中の分厚い鋼鉄製の格納容器を見たせいかも知れません。あんな頑丈なものが壊れるわけはないと信じていました。地震の影響で配管が破損したとしても、放射性物質の漏洩は、せいぜい原発敷地内で収まると思っていました。
水素爆発のあと、患者さんの搬送作業を一時中断して屋内に待機しましたが、自衛隊の指示で間もなく再開しました。夕方5時過ぎに、最後の車両に乗って双葉高校に行くと、自衛隊の人から決して外にでないように言われ、私は自衛隊の車両の中で、先に行った人たちは体育館の中でじっとしていました。二回目のベントがあったようです。
日が暮れる頃、最初のヘリがやってきました。その音を聞いた町民が十数名グランドに集まって来ました。体育館には特別養護老人ホームの入所者もいました。救援ヘリの数は7機、全員を搭乗させるには足りません。結局その日に乗り切れなかった人は、双葉高校の茶道室で一夜を明かすことになりました(翌日には無事双葉を脱出した)。最初の4台は二本松に向かい、霞ヶ城公園の近くにある男女共生センターに避難しました。あとの3台は行き先が決まらなかったのか、着陸地点を探しながら長時間飛行し、深夜になって仙台の霞目駐屯地に着陸しました。その夜は自衛隊の営舎で過ごしましたが、寒さと不安で朝まで眠れませんでした。翌日(13日)の朝、双葉高校に残った人たちは迎えに来たヘリで。仙台の私たちも仙台の自衛隊ヘリで二本松に移動しました。
【患者に付き添った職員たち】
3月12日の夜、双葉厚生病院の患者さんと職員は、浪江のオンフール双葉、川俣の鶴沢公民館、二本松の男女共生センターと仙台の霞目駐屯地の4カ所に別れて避難したことになります。オンフール双葉で降車した患者さんのことが心配でしたが、オンフールに避難していた双葉病院の患者さんやその他の人たちと一緒に、13日に浪江をバスで発ち、厳しい環境の中で長時間あちこち巡ったあげく、いわき光洋高校に搬送されたことが判明しました。いわきに患者さんがいるとの報告を受け、数日後に看護部長さんと事務職員が安否確認に向かい、退院できる人は家族と合流し、入院が必要な人は厚生連の病院(塙厚生病院および高田厚生病院)やその他の民間病院に転院してもらいました。
13日には、避難箇所が川俣の鶴沢公民館と二本松の男女共生センターの二箇所に集約されました。鶴沢公民館のほうには私と事務長が、男女共生センターのほうには副院長と事務局次長と看護部長がいて、それぞれの避難所の責任者として職員に指示をすることができましたので、大きな混乱はありませんでした。避難所に入った患者さん全員が退院または転院するまでに鶴沢は2〜3日、二本松は2週間くらいかかったと思います。すべての患者さんが避難所を去ったあと、残った職員は家族と連絡を取り合い避難しました。当面の避難先が見つからない人はJAビルの敷地内にある施設で過ごしました。200名以上いた職員は、親戚や知人を頼って全国各地に避難したので、安否確認は容易ではなく、全員の居住地は判明するまで数ヶ月を要しました。
病院の職員も被災者であり、家族と連絡とれなかった人も多かったのですが、医療従事者の根性を見せてもらった気がします。当時は怖いという感情はありませんでした。情報がなかったせいもあるとは思いますが、いわゆる原発神話を信じていたのかも知れません。地震、津波、原発事故、避難と、あまりにも多くのことが急に展開したこともあって、自分のことよりも患者さんのことを考えるので精一杯だったのだと思います。南相馬市やいわき市など、原発から30km圏外の境界地域の方々は、放射能汚染がじわじわと迫ってくるようで、かえって怖かったのではないでしょうか。情報が全く入らないというのも良し悪しですけど。
【カルテをとりに一時立入】
病院の診療は休止となり、福島市にあるJAビル内に双葉厚生病院災害対策本部が設置されました。散り散りになった職員の安否確認、患者さんが転院した医療機関への診療情報提供、患者さん本人からの問い合わせへの対応など、様々な業務を行ないました。どんな薬が処方されていたかはレセプトで確認できますが、治療経過の問い合わせに返答するためにはカルテを確認しなければなりません。病院周辺はまだ空間放射線量が高い状態でしたが、病院内に保管されている診療録を持ってくるために、防護服をきて病院に立ち入ることもありました。
【311に生まれた命】
3月11日から12日にかけて、双葉厚生病院で2つの新しい命が生まれました。そのうち1人は富岡に住んでいたご夫婦のお子さんで、地震のあと帝王切開で生まれました。帝王切開の準備中に地震がきたので、手術を中断して院外に避難しました。このまま手術を行なうことは無理と判断した主治医は、「救急車かヘリでどこかの病院に運べ」と指示をしたのですが、搬送の手段はありませんでした。主治医は腹くくって、ここでやるしかないと思ったそうです。激しい余震が続いてとても危険な手術でしたが、母子ともよく頑張ったと思います。電気も、水も、ガスも通じていたのは幸いでした。生まれたばかりの赤ちゃんは12日に自衛隊のバスに乗り、福島市の病院に無事に転院できました。あのとき生まれたお嬢さんは、今年10歳になります。震災のとき還暦になった私も、もう古希ですからね(笑)(双葉厚生病院での3.11の出産、避難を記した母親の手記が、「3.11に生まれた君へ」に掲載されています)(*3)
【双葉厚生病院と県立大野病院の統合〜一旦白紙に】
双葉厚生病院に赴任して以来、双葉地域の医療をもっと良くしたいと思う気持ちを持っていました。県立大野病院との統合計画が動き出したのは震災の数年前です。双葉厚生病院と県立大野病院は、設立母体が違うことから、どうせ実現は不可能だろうと考える人がほとんどでした。県立病院を農業団体に売渡すことなど絶対認められないなどと意気込む人々もいました。しかし、双葉地域の医療の充実・発展のためには両病院の統合が必要であるということを、時間をかけて丁寧に説明した結果、多くの住民の方々に理解をしていただき、双葉郡8町村の町村長と議会の承認も得て、いよいよ新病院開院の運びとなりました。4月からは、急性期の医療をふたば中央厚生病院(大熊町)で、慢性期の医療と訪問医療をふたば地域医療センター(双葉町)で行うことにしました。ふたば中央厚生病院には多目的ヘリを常駐させ、浜・中・会津の基幹病院と連携して救急医療を行うことになっていました。私は、数年前から大野病院で外来診療を始めており、病棟の一角に仮の院長室を設けてパソコンや資料を持ち込んで仕事をしていました。開院後は、双葉と大野の施設を結ぶシャトルバスを運行して患者さんの利便性をあげ、どちらの施設でも受付ができるようなシステムを考えていました。
効率的で質の高い医療を行うには、専門医が実力を発揮できる設備と、研修医を受け入れ教育できる環境が必要です。看護師やその他の医療従事者の自己研鑽が可能な病院でなくてはなりません。そのためには、病院の規模(病床数)もある程度以上必要です。双葉厚生病院と県立大野病院を一つにすると410床の病院が出来上がりますが、急激な変革を行うことには慎重にならざるを得ませんでした。
大熊に常駐させる多目的ヘリコプターの運用訓練も行いました。最初のフライトには私が乗りました。双葉厚生病院と県立大野病院の統合の精神は、ふたば医療センター附属病院に受け継がれています。
【双葉地域の医療】
原発事故から数年経ち、除染が進んで帰還が始まると、どの町村も住民の医療をどうするかという問題がでます。近くに診療所がなくて薬がもらえない、急病になったとき見てもらえる病院がないという不安がでるのは当然です。医療機関は必要ですが、自立採算で運営することは不可能ですから、どうしても行政に頼ることになります。いまは各町村で診療所を立ち上げて住民サービスを行っていますが、これはあくまで暫定的な施策だと思います。住民の不安を解消するために診療所を設立することは必要ですが、限られた医療資源(医師、看護師、その他の職員を含む)のなかで、それぞれの町村が独自に診療所を持ち、それを長期間維持することはきわめて困難ですので、いずれ双葉郡医療の将来構想を考える時期が来ると思います。そのときは、各町村の利害を超え、双葉郡全体を考えた真摯な話し合いが必要になります。いま、双葉厚生病院に勤務していた先生は、厚生連の別の病院で働いていますが、双葉郡立診療所にも応援に行っています。
「ふたば医療センター附属病院」は双葉郡の救急医療を担う目的で開設されましたが、この病院の設立が具体的になった時に、厚生連と福島県の間で新たな協定が結ばれました。厚生連は病院の運営に協力することになり、双葉厚生病院で働いていた職員がスタッフとして参加しました。私も運営支援監(非常勤)として病院の運営に関わっています。ふたば医療センター附属病院の初代院長は、双葉厚生病院の避難を陰から支えた私の同級生でもある田勢先生、いまの院長は原発事故直後の厳しい状況下で福島に入って活躍され、その後福島医大副理事長として福島県の復興のために尽力されていた谷川先生、どちらも震災復興の立役者の一人です。彼らと共に働くこととができることに感謝しています。私は週に一回、糖尿病外来で診察をしています。双葉厚生病院にあった糖尿病患者の会(やすらぎ会)をふたば医療センターに移管し、ふたばやすらぎ会として再発足させました。患者さんは少ないのですが、地道に活動を始めています。
【双葉厚生病院】
双葉厚生病院は震災のあと休止したままですが、私は今も双葉厚生病院の院長という立場で仕事をしています。双葉厚生病院を運営する厚生連は農業協同組合を母体としており、福島県内のすべての農家組合員の健康増進に寄与する責任があります。双葉厚生病院はもともといわき市、双葉郡全域、相馬郡と田村郡の一部の組合員の健康管理を行なうとともに、双葉郡とその周辺地域の住民のために診療を行ってきました。その役割は今後も変わることはありません。病院を再開できる日はまだ遠いですが、いずれ必ず復活します。
【双葉郡のこれから】
双葉地域は原発事故によって壊滅状態に陥りました。復興は道半ばであり、生きているうちは戻れないと嘆く高齢者も少なくありません。でも、故郷の土地は何年、何十年経ってもそこにあります。だから絶対にあきらめては駄目だと思います。自分には無理と思っても、荒廃した地域を取り戻す努力を続ける必要があります。少しずつですが、人は戻っているし、新しく住むようになった人もいます。何年か経てば、もっと人が住むようになる。そういう信じることも大事だと思っています。お年寄りが戻りたいと思う気持ちはよくわかるし、戻った人が、もとの町や村とは違う町になっていくのを嘆く気持ちも理解できます。でも、過ぎたことを嘆き悔やむより、明るい未来を想像して今頑張ることのほうが楽しいし、元気がでるのではないでしょうか。原発事故当時まだ子供たった人たちが、大きく逞しく成長し、故郷を取り戻す活動をしています。ずっと未来を生きる若い世代に頑張ってもらいたいというのがいまの気持ちで、私がこれからできることには限りがありますが、頑張っている若い人たちの応援団であり続けたいと思っています。
【双葉時代の思い出】
双葉町にある双葉海浜公園には家族とよく行きました。海に入ったり、キャンプ場でバーベキューをしたりしました。夜の森の桜は綺麗でしたね。双葉町の盆踊りには毎年参加しました。コーラスふたばにも所属していて、コンサートやいろいろな行事に参加ました。ダルマ市や町民芸能祭も懐かしい楽しい思い出です。
【最後に双葉郡の住民に伝えたいことは】
悲しいことも悔しいこともいっぱいありましたけど、振り向かず前を向いて歩んでください。人生の始めと終わりは自分では決められません。還暦を迎えることなく逝く人もいれば、100歳になっても意気軒高な人もいます。80歳の人も100歳まで生きれば20年ある訳だし、あまり年齢のことは考えずくよくよせず、楽しいことを見つけて元気に生きるのが一番だと思っています。
重富秀一 JA福島厚生連双葉厚生病院院長
昭和25年9月3日生二本松出身 福島高校、
1976年 福島県立医科大学卒業、直ちに同大学第三内科に入局
1989年 カナダ(モントリオール)に留学
Clinical Research Institute of Montreal
高血圧自律神経部門(Otto Kuchel教授)
1992年 福島県立医科大学内科学第三講座助教授
1997年 JA福島厚生連双葉厚生病院院長
2003年 福島県立医医科大学臨床教授(内科学)
2011年 JA福島厚生蓮医療体制整備室長(兼務)
2014年 福島県農協会館診療所長(兼務)
注釈
(*1)県立大野病院と双葉厚生病院の統合に係る基本計画(福島県)
https://www.pref.fukushima.lg.jp/download/1/kihonkeikaku.pdf
(*2)オンフール双葉/浪江町にあった特別養護老人ホーム。2016年にいわき市で事業再開。
(*3)「3.11に生まれた君へ」北海道新聞社発行
2011年3月11日に東日本大震災被災地で出産した母親たちの31の手記(写真)
編集「君の椅子」プロジェクト
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