医療法人社団 邦諭会 とみおか診療所 院長
「今村病院設立へ」
生まれは南相馬市小高区です。父は開業医でした。1982年に神奈川県川崎市の聖マリアンナ医科大学を卒業。いずれは小高に帰って医院を継ぐ考えもありましたが、しばらくはそのまま大学病院で勤務していました。約10年後の1991年、富岡町に今村病院を開院することになったのは、医療体制が脆弱だった双葉郡に救急対応が可能な一般病院をつくりたいという、保健所長の依頼を受けたからです。初めは父のところへ話があったのですが、ちょうど帰郷していた私はそれを聞いて、同じ福島県に帰るのであれば双葉郡の人たちの役に立つのもいいだろうと考え、開業を決意したのです。病床は100床。地域の「かかりつけ医」として1日140人ほどの患者さんを診る、忙しい日々が始まりました。その後まもなく、警察医や原子力被ばく専門医の仕事も担うようになり、原発作業員の方々の健康診断なども行っていました。
解体前の今村病院2016年4月
2011.3.11地震直後の院内
「100人以上の患者を避難・転院させた10日間」
そして東日本大震災が起きました。5階建ての病院建物は、内陸でしたから津波被害はなく、揺れによる損傷も幸いほとんどなかったのですが、ぎりぎりで溢れなかった富岡川を逆流する津波に家や車が流されてきたのに驚き、津波による怪我、外傷などの患者さんたちであっという間に院内はぎゅうぎゅう詰めになってしまいました。
翌日(3月12日)ライフラインが止まっていたので復旧を考えていると、イチエフから10km圏内に避難指示がでて、パニックの中でまずはバスで川内村へ避難することになりましたが、安全上の理由で、自力で歩ける人・座ってシートベルトができる人しか乗せてもらえませんでした。その時点で100人以上の患者さんがいたのですが、バスに乗れたのは半分くらいだったでしょうか。では、残りの寝たきりの患者さんたちはどうしたらいいか。それで私たちは、私の警察医としての伝手も頼って避難手段を必死に探し、最終的には13日になってから自衛隊のヘリコプターで近くの小学校から郡山高校へ搬送してもらうことなりました。一人をヘリに乗せるのにも隊員5人がかりです。助けを求めてよかったと思いました。70人近い患者さんたちを搬送するのに何往復もして、最後の一人を運び終わったのは3月14日の月曜の真夜中でした。
搬送先の郡山高校には、既に浪江町などからの避難者もたくさんいましたね。私たちは教室を3つ使わせてもらい、床に段ボールを敷いて患者さんたちを寝かせるしかありませんでした。必要最低限の薬や医療器具は持参できたので、カルテを黒板に書き、点滴や経管栄養などの処置はなんとかできたものの、それ以上は無理です。急いで郡山市内に患者さんたちの転院先を探しましたが、市内も震災の影響が大きく、水道が止まっている場所もあったりして、受け入れてくれる病院はなかなか見つかりません。看護師さんとセットで来てくれるならOKというところもありましたが、こちらもギリギリです。今村病院では当時、看護師とその他(清掃・給食など)のスタッフあわせると80人以上が働いていましたが、富岡からの避難に同行してもらえたのはそのうち10人くらいでしたから。結局市内で探すのは諦め、私の医大時代のネットワークも駆使して福島県外の病院に振り分けて依頼し、なんとか3月20日に全患者さんの転院が完了したのでした。
(注/当時福島県の地域防災計画では、原子力災害時には病院が独力で患者の避難を行うものと定められていた)
避難先となった郡山高校の教室(2011.3.14)
「震災当初の動き」
震災当時、私は富岡町内で妻と小学生・中学生の子ども2人の4人暮らしでした(長女は東京にいた)。バタバタしてた当日の夜、事務長室で一度家族に会って、その後ウトウト寝てて、朝起きたら家に誰もいなかったんです。その後数日間、家族とはまったく連絡がとれませんでしたが、ケガなどしていないのは分かっていたので、さほど心配はしませんでした。どうやら役場のバスに乗って川内村へ避難したらしい、と分かりましたが、こちらは患者さんのことがあるのでとても行かれません。16日くらいになって家族の方が郡山高校に来てくれて、やっと合流できたのです。
患者さんの転院が一段落した後、私たちは横浜にある妻の実家に避難しました。4月の新学期を控え、子どもたちの学校を早く決めないといけなかったので、まもなく、地の利がある母校の医大の近くにアパートを借りて落ち着き、その近くの学校に進学させました。私自身は、医大時代の仲間の病院を手伝うアルバイトみたいな生活を開始。5月になって津波被災地の行方不明者捜索が再開されると、週の半分は相馬市に行って検死の仕事にも携わりました。
相馬市アルプス電気での死体検案(2011.5.15)
「2016年10月、富岡で医療を再開」
そして、震災から2年後くらいのことでしたか、東京で富岡町民を集めた避難指示区域再編の説明会があったとき、故・遠藤町長から直接、「今村病院を再開できないか」と打診されたのです。多額の借り入れをして建てた医院の建物はほとんど無傷ですが、何もしてなくても地代を含む維持費は毎月かかる。悔しくて、私はときどき富岡に戻り一人で掃除したりワックス掛けしたりしていたんですよ。「ちくしょう!」と心の中で叫びながらね。だから、その建物を使っていつか再開したいという気持ちはもちろんありました。とはいえ、当時はまだ避難指示が継続中です。この状況で再開はとても無理だと分かっていました。でも町としては、町民が帰れるようにするには、入院は無理でもプライマリケア(一次医療)ができる場所はどうしても必要だと判断したのでしょう。結局、避難指示一部解除が近づいてきて、建物や設備を町が用意して町立の診療所をつくることになり、指定管理者としてその運営を私たち(医療法人社団・邦諭会)が引き受けることになったのです。
そうして2016年10月、富岡町の避難指示一部解除に半年先立って、「町立とみおか診療所」が開院しました。当初は週3日の診療で患者さんは1日わずか10人ほど。避難解除後は週5日に増やし、患者さんも次第に増えていって、今では健診も含めて1日60~70人くらいを診ています。今のスタッフ18人は全員(元は50人くらい)、以前の今村病院のスタッフです。声をかけたら戻ってきてくれました。規模はだいぶ小さくなりましたが、気心の知れたスタッフと一緒に仕事ができるのはストレスが少なくて助かりますね。
また、2018年4月、富岡町内に入院や手術が可能な2次救急医療病院「ふたば医療センター附属病院」ができました。ここで、夜間や休日救急など診療所では対応しきれない患者さんを受け入れてもらえるようになったほか、県立なので、同センターを通していわき市や南相馬市だけでなく中通りや会津など県内各地の拠点病院や大学病院とも連携をとりやすくなり、地域の安心につながっています。
とみおか診療所 2020年10月 富岡町から医療法人社団邦諭会へ引き継がれた
「大変だけれど、もうやるしかない」
富岡で医療を再開してから4年余り。帰町した時点で80代だった人たちが90代に入り、認知症が進んで施設に入ったり、遠くの家族に引き取られたりするケースも増えてきました。また、ガンが見つかったり、人工透析が必要になったりすれば、独居や高齢二人暮らしが困難になる。そういう人たちのために、以前の今村病院で提供していたような療養型の病床があれば、一時入院やリハビリも可能なのですが、それができないことをもどかしく感じます。市外の大きな病院にいって治療して富岡に戻ってきても、療養できるところがないんです。今はなんとかなっていても、あと4~5年経てばどうなってしまうのか。
実のところ、私たち医療法人としての経営にも厳しい面があります。2020年10月より診療所の経営を町から引き継ぎ、施設名から「町立」が取れました。率直に言うと、これは医院としての採算が成り立つと判断したからではありません。旧今村病院の建物は結局、膨大な維持費が負担となって2017年10月にやむなく解体、廃院としました。しかし、医療法人を継続するには、(町からの委託ではなく)独立した医療施設を運営していないといけません。したがって、これまでの診療所施設を「借用」する形で独立。法人の事業として「とみおか診療所」をスタートしたのです。ただ、現状の規模では法人の黒字化は難しく、蓄えを取り崩して生活しているのが現状です。また、町に住んでいる人の数が少ないので、その少ない人に様々な役職などの負荷がかかっている面も否めません。なるべく診療を休みたくないのですが、平日の午後に町の会議があったりしますからね。
自分もあと5年で70歳。蓄えが尽きたらどうなるのか・・・と考えると夜も眠れなくなりそうですが、私はそういう性格ではないんですね(笑)。もう、やるしかないんです。幸い私は元気ですし、週末まだ川崎にいる家族のところへ行って気分転換もできる。それに、以前の今村病院時代では当直もあったし、夜中の救急で呼び出しもあったのに比べれば、身体的には今の方がよほど楽ですよ。20年来の患者さんが、私の顔を見て安心すると言ってくださる。そういう方がいる限り、私たちは続けるしかないのです。
(2020年12月取材)
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