「双葉郡未来会議 season7 ~特集!牛たちの行方~」開催レポート 5

「双葉郡未来会議 season7 ~特集!牛たちの行方~」開催レポート 5

トーク/松村直登さん(富岡町/NPOがんばる福島)

 富岡町から来ました、松村です。震災当時、最初は家族で避難する予定でした。家族会議をしたときに、お袋の足腰が弱っていて、避難生活が難しかったので、結局3人で1週間くらい留まっていましたが、その後、お袋と親父は静岡に行くことになり、私は犬や猫の面倒をみるために留まることにしました。そのままずっと今に至ります。

 それからは生きていくこととの戦いでした。もう完全に封鎖されていましたから、犬猫の餌もない、食べるものもない。でも米と味噌だけは山ほどあって、米と味噌だけではつまらないから、近所の畑から野菜をもらってました。後からその人たちには断ったんですけどね。最初は畑のものはうっすら被曝しているというイメージがあったから不安に思いましたが、食べてるうちに全然気にならなくなりました。タンパク質をとるために川に魚釣りにいったり。

 そんなこんなしているうちに、ある時に県会議員の友達からJAXA、宇宙研究をやってる機関ですね、その博士数名が高濃度汚染地でヒマワリの除染の実証試験をやるというから、種まきとか収穫とかの手伝いをしてほしいと声をかけられました。それで津島に行って種をまいて、それなりに手入れをして、秋に収穫をしました。その後、研究発表会に招かれ、全部で6チームぐらい研究発表したんですが、ひまわりで除染は不可という結果になりました。その当時はヒマワリが有効らしいと、あちこちにひまわりを植えていたのに、結果的には無意味だったみたいです。

 秋近くなったときにキノコを調べることになりました。当時簡易の測定器を作って、津島でコウタケを調べてみたんです。機械に入れて2、3分過ぎてから博士が機械を見ておぉ、といきなり。30万ベクレルだというのです。その時にキノコは危険だということがわかりました。津島の川の水も調べて、水自体には問題はありませんでしたが、水の底にある泥とか落ち葉とかは線量がものすごく高い。俺は川の水とか湧き水とかを飲んでいたので、水は本当に心配だったのですが、その話を聞いて少しホッとしました。でも、その時に何を食べてるんですか、と言われて。食べている川魚を検査しました。いや凄かったですよ、みんな1,000ベクレル以上ありました。

 事故以降、電気はなかったので、夜はろうそくで過ごしました。ただし、ほんとに必要なときしか使わない。必要なことは、全て明るいうちに済ませていました。当時はビニールハウスがあって、朝早くたらいに水を40Lぐらい入れて放置すると、ハウスの中は暑いくらいだから、風呂に入るにはちょうどいいお湯になりました。トイレは毎朝スコップを担いで、用をたしたら埋めて。明日またそこを間違って掘らないように目印をして、次の日はまた隣にさしたり。あの中で1人孤独で信じられないような生活をして生きていた。今考えるとよくあんなことやってたなぁと思います。本当に生きることが戦いだった。

 2011年4月20日には東京電力本社に行きました。応接室みたいなところに通されて、いろんなことを言ったら、松村さんも被曝しますから、避難してくださいと返されるんです。俺なんかもうずっと前から被曝しているので、死んだら死んだでいいですからと言いましたよ。最初、東電に「動物たちはどうするんですか、あなたたちのせいですよ、何とかしてください。」と言いました。東電は救出はできませんと言い、国からやることはないと言われていると。それでもう喧嘩になってしまいました。
「あなたたちはやらないと言ってますが、私のもとにはこんなにやってほしい、という手紙がたくさん来てます!」と大量の手紙をドンと差し出しました。ほとんど海外からでした。本店には3回くらいは行きました。
 壊れた瓦屋根のことも言いました。あなた達が全て保証しないといけなくなりますからね、何百億何千億だかわかりませんよと。しばらくしてから、ブルーシートを張り始めたわけですが、結局役立たずで、みんな雨漏りしたわけです。議員会館にも行きました。もうどうせ死ぬんだったらやり残さないように何でもやろうと。そのうちいろんな人に知られるようになったんですが、そもそものきっかけはAP通信の取材でした。それを世界中の人が見てくれて。そしたら、ちょっと変わったカメラマンがイタリアから来て、行きたいと盛んに訴えるわけです。20キロ圏内に入りたいと。何度も断りましたが、私も折れまして、入れるならきたらいいでしょうと。
 そして出発の前日に通訳を通して電話がかかってきました。どこから来る気ですか、と聞いたら、線路を歩いていきます。線路にバリケードはないですよね?と。当時は久ノ浜まで不通でした。多分、久ノ浜からだったら20キロ近くあるんじゃないかなぁ。それも夜。私もとりあえず迎えに行こうと思って、楢葉まで行って線路の上を歩きました。末続あたりのトンネルの中で、足音が近づいてくるわけですね。そして「おう」と呼びかけたら無視して側を通っていくわけです。俺だ、と言ったりしても5分ぐらい無視していました。その後やっと気がついたんですが、真っ暗なところでいきなり声をかけられて、口から心臓が出るほど怖かったらしいです。
 そのカメラマンは後に年に3回くらいは来ていました。その彼がある日、私を有楽町の記者クラブにあるレストランに誘ってくれたことがきっかけで、記者会見をすることになりました。世界中から記者がたくさん集まりました。そして記者会見を皮切りにとうとう、ヨーロッパに招待を受けたわけです。フランス、イギリス、スイス、イタリアなど、ずっと講演して歩いたり、反原発の運動をやったりしました。
 警戒区域の中で最も恐れていたことは、いつ殺されるか分からないという事でした。見るからに怪しい人たちが結構いたんです。だから念のために車の後ろに木刀を積んでました。
 川では漁をする人がいなくなったので、今まで釣れなかったマスやサクラマス、アナゴなんかが釣れました。そういう風に獣や魚が増えて、自然が昔のように息を吹き返している気がします。人間がいないから。
 イノシシは一時期は家の中まで、何度も入ってくる始末でしたが、今ではだいぶ少なくなったと思います。普通イノシシの生態と言うと、民家や家の庭先に入ることはほとんどありませんでしたが、震災以降に生まれたイノシシは、人を怖がりません。また野生のアライグマも増えました。夜行性であまり人懐っこい動物ではないようです。

 この写真は2013年くらいですかね。吉沢さんといっしょに農水省と環境省にクレームを入れに牛を連れて行ったんです。その前に何故か吉沢さんは県庁もいくと言いだしました。県庁のオフサイトセンターに行きたかったようです。私はとりあえず車に留まったら、農水部長や課長10人位の人にとり囲まれて、何をするのか聞いてくるので、環境省と農水省のほうへ行きますと答えました。そしたら風評被害が酷くなるから、やめてくださいというわけなんです。何が風評被害でしょうか。そして農水省も環境省も着いたらちゃんと出迎えてくれたんです。
 私もこの活動が7年も続くとは思っていませんでした。今となっては牛たちが生きてるうちは続けると思います。

 当時あの中で生きていくにはと考えて、ミツバチを購入して、レンゲの種もまきした。今は4箱分のミツバチがいます。まずはいろんな人にそのハチや蜂蜜をプレゼントする。そして養蜂を広めよういうプロジェクトが今動き始めています。今ハチが貴重ですから。世界中でネオニコチノイド(殺虫剤)のせいでハチが激減したと言われており、今ハチが高いんですよ。だからあの中で養蜂をして、復興にひと役買いたいなと思ってます。レンゲの畑がここ数年のうちにかなりの面積になるかもしれません。その時はぜひ皆さん、見にきてください。よろしくお願いいたします。

 最初、牛を保護し始めたのは、国が殺処分と決めた2011年の5月が始まりでした。なんとなく、牛も私も同じ境遇にいるのかなと思いました。警戒区域で私と同じように生き残りをやっているのに、あなたたちは殺すのか?絶対に殺させないと思って、環境省や保健所がやっていたのを止めようとしました。それで農家さんが牛を囲って集めた牛の飼育をはじめました。双葉消防署の裏側と岩井戸の自宅の近く。多いときで合わせて40数頭ぐらいましたね。当初は餌が一番の課題でした。牛を飼うとしたはいいものの、専業ではないので餌をどうすればいいかわからず、どのぐらい食べるか想像もつかない。色んな方が支援してくれて、それなりに送ってくれたのですが、全然足りないわけです。そして都合よく希望の牧場の吉沢さんと知り合って、色々教えてもらいました。それがなかったらもう終わっていたかもしれません。

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