「JOE’SMAN からJOE’SMAN 2号まで」
双葉町にあった「キッチンたかさき」は、父が営んでいた“まちの洋食屋”です。自分は東京で調理の仕事をしながら、いつか双葉で店を継ぐ、というよりは自分の店をやるために帰ってくることは決めてました。そして2009年の4月に家族と一緒に帰ってきて、半年ほど準備して9月に自分の店JOE’SMANをオープンしたんです。
震災当時はJOE’SMANのランチタイムが終わって休憩してた時に地震がきました。それで一夜明けて3月12日に避難することになるんですけど、最初は家族で双葉北小に避難し、そこから川俣に行って2〜3日いました。そのころは原発が爆発した後で色んな情報が錯綜する中、子供が一歳だったこともあって、妻の実家の四街道(千葉)に行こうということになりました。たまたまガソリンが満タンで、四街道くらいまではいけるだろうということで。
四街道で2週間くらいお邪魔させてもらってる間に、以前働いていた川崎の会社に連絡し、事情を話して雇用してもらうことになりました。でもその当時の飲食業って自粛ムードで人を雇用するような状況ではない上に、この状況で酒飲んでる場合じゃないみたいな空気感があったんですけど、社長が周囲の反対を押し切って雇用してくれたんです。
それで住むところを探して、川崎の市営住宅に応募しようとしたら、その地域に避難してないと応募できないっていわれたんです。そこに就職がきまったからでもダメというので、とりあえず自分だけ川崎の「とどろきアリーナ」に一旦避難して、1ヶ月くらいはそこから会社に通ってました。それでやっと応募できて、家族と市営住宅に入居することができました。アリーナにいた時は全国から物資が届いてて、食べるものも困らないし、風呂も入れるし、手厚い支援がありがたかったですね。
川崎では毎日10時間以上働いて忙しい日々をおくっていました。そのうち社長からはどこどこのお店をまかせるみたいな話はあったんですけど、自分で勝負したいっていう思いが強くなって、2014年に三軒茶屋でJOE’SMAN 2号(*1)を立ち上げました。その時は若さゆえの勢いっていうか、前の会社では寝ずに働いてたっていう経験もあるんで、ガムシャラに働いて結果をだす!気合入ってます!みたいな、よくある居酒屋の店主のようだった気がします。ずっと働き詰めだった親の影響もあったと思いますが、それから約2年くらいは朝まで仕事して休みの日はボロボロでした。それに対して妻が理解してくれてたっていうのは大きかったですね。知り合ったのは飲食店だったんで、そういうのをわかってくれてました。
当時は、双葉に帰る予定を調整できないくらいずっと働き詰めだったので、初めて一時帰宅したのは2013年になってからでした。その時取ってきたのは包丁とレシピだけです。初めて震災後の町を見た時は、人が住まない町って、本当に老朽化、荒廃するっていうか、人が住んでるから町って生きてるんだなっていうのを凄く感じました。人が誰もいなくて、時間が止まってるような状態だったし、それに対して自分に何かできるわけではないというのを痛感してしまいました。というよりも、地域の先のことを考えるよりも、お世話になった会社のために結果を出したり、家族のために働くっていう事しか考えられなくて、他のことを考える余裕が全くなかったて言うのが正直なところです。
「逆境の中で自ら挑戦できる立場に」
振り返ると親が30年以上続けてた「キッチンたかさき」は、地元では愛されてるお店だったので、自分が言うのもなんなんですけど、もし店を継いでいれば高崎ブランドというか生活の安定という意味では約束されてるレールのようなものがあったんです。しかも当時は原発の7号機、8号機が増設される予定で、原発バブルみたいなのがもう一回来るといわれてました。そうなると自分(の力)じゃない評価をされるようなイメージがあって、自分の人生の最終地点みたいなのをやんわりと感じてる部分はありました。
でも、震災があってレールから外れた時に、どこで何を表現しても、高崎丈っていう人間がよくも悪くも評価される。やるかやらないかっていう状況に初めてなったんです。そこで格闘するあせりもあったけど、JOE’SMAN 2号では今までとは違う世界に挑戦できる、そこに対するやりがいも感じていました。
「JOE’SMAN 2号」
経営としては全然順調じゃなくて、いや、順調かと思ったんですけど、三茶っていう場所柄の波っていうか、ついたお客さんが急に離れる時期があって、町自体が人の入れ替わりが激しいというのもあったし、ずっといる人たちもうまく取り込めなかった部分もあって苦戦してました。
店は熱燗を突き詰めるみたいな感じにシフトし始めた時期があって、単価が段々上がっていったんです。最初の1時間に食事はアラカルトで、飲む人でも5千円くらいだったのが、最終的には一万円位になってました。それくらいウチでしか表現できない世界を目指してたんですけど、最終的には三茶のお客さんが離れたり、外から来てくれるお客さんしかいなかったという現状がありました。そういう厳しい状況の上にコロナ渦がきてしまって、2020年の3〜4月には一旦お店を閉めるという決断をしました(閉店は2021年1月)。
ただ、自分が目指していた本当の熱燗を体験した人しかわからない世界観っていうか、その感動体験みたいなのはある程度成立できていたので、移転を視野に入れながら、撤退は攻めのアクションと考えてます。
今やってれば補助金とか時間短縮とかでお金をもらえる表面的なことはあると思うんですけど、お金じゃないって思ってるんです。例えば1日四万円、つづければ100万円以上の価値を、その期間にどれだけ何を行動するかっていうのを、無職という状態の中でも出せればいいと思ってて、休業補償以上の価値をつけれる行動を考えながら色々やってるところです。
「高崎のおかん」
今、こういう状況なんであんまり公開してないんですけど、熱燗の体燗トレーニングっていうのをやってるんです。体燗トレーニングっていうのはお燗の技術を上げるためのトレーニングです。自分の道具でうまくできるのは当たり前で、何もない状態でどれだけうまく適応できるか。『いつ何時でも、何処でも熱燗付けてやる』っていう猪木スタイルです(笑)。
それを千葉の館山の先輩の店でやった時に、たまたま放送作家の鈴木おさむさんがきてくれてて、熱燗のプレゼンとか、僕の活動とか話してたら、僕の新しい店の名前は「高崎のお燗」って勝手に考えてくれたんです。
体燗トレーニングは僕の欲求から始まってて、それを先輩のところでやらせてもらい、結果的に鈴木おさむさんが店名を命名してくれるっていう件、だれがこの結末を想像できるかって思うんです。でも世の中ってこうしたらこうなりますみたいなことの連続で、そんな想像できる範囲でのことなんかたかが知れてるんですよ。ましてや僕らがやろうとしてることって、地方創生っていうか、双葉町の状況をどうにかしようっていう話になった時に、正直、僕らの頭で考えてどうこうできる話じゃないですよね。
でも衝動的な行動の方が大事だと思ってて、その連続が結果的に双葉町にアートが生まれてからのああいう状況になってるっていうのが現状であって、僕に力があるとかではないんです。ただ僕は衝動的にこのタイミングでこっちに動いたほうがいいとか、においがするとか勝手な行動の繰り返しで、その連続で何かが一つ変わるとは思ってます。
「今後の展望」
一つはオーバーオールズさん(*2)とやらさせていただいてる双葉町のアートディストリクトです。オーバーオールズさんが双葉町で壁画を描くプロジェクトで、アートっていうのは一歩を踏み出すっていう時には本当にすごい勢いがあります。最初の一歩目の時に「情熱大陸」(*3)の取材が入ったんです。それから二投目、三投目があって、最初は町長には個人でやってるよね、位の受け取られ方だったんですけど、三投目の日曜日の時に、町長自ら来てくれました。この活動の順番て、赤澤さん(*4)とはよく話をするんですけど、「WOW!」を始めるのがアートだっていう話をするんです。「WOW」と「HOW」。一般的な考え方って「HOW」なんですね。なぜそれをやるのか、やって意味があるのか。というのが「HOW」の考え方なんですけど、「HOW」の考え方だと町長を呼ぶには2〜3年かかったんじゃないかと。でも「WOW」から始めちゃうと、結果的に絵を描き始めて4ヶ月目に町長が動いてくれて、そこで僕らは音楽フェスをやりたいんですといったら、超前向きな言葉をくれて、これが僕の原動力に拍車をかけた出来事の一つでした。
この流れを止めたくないなと思って、2/22に双葉町に(株)タカサキ喜画ていう会社を立ち上げました。何か新しい事をやるときに、地方ではトップダウンでは難しいと思ってて、ボトムアップで双葉町の詰まってるところをうまく潤滑させたいと。ふたばプロジェクトさんや役場の人とも繋がったし、UR機構さんもそこに対して賛同してくれて、
行政だけでは発想ができないようなところを(株)タカサキ喜画がお手伝いするというところに向けて、走り始めたところです。民間のやる気があるところがあれば、みんなそこに連携したりとか、地元の企業が動いて団結力が生まれるところがあるじゃないですか。この地域では双葉が一番遅れてるところなんで、そういうのをないなら作っちゃおうという発想です。ただ僕はまだ何もできないんで、各分野の専門の人たちが相談にのってくれてるという状況です。
他にも本職は日本酒業界のイベントとか熱燗とかあるんですけど、今のフリーの状態の方が家にいないんですよ。本当に色々あって。ここでも家族には迷惑かけるかもしれないですけど、僕が動けてるのは家族の共感があってこそなんで、ちゃんと伝える義務があると思ってます。
「これからの双葉町との関わり」
僕は10年東京にいて2年双葉にいて、震災後また10年出てて、オーバーオールズさんとの兼ね合いがあって、たまたま双葉町での活動が始まったていうのは事実あるんですけど、でもやっぱり震災後10年間ずっと双葉町と向き合ってきた人たちがいるじゃないですか。そういう人達が本来はもっと評価されるべきなんです。僕が中心になってやるということを望んでるんではなくて、たまたまなんかラッキーボーイ的に人を繋げられただけで、これから双葉町をどうにかしたいっていう人たちがやっていくための繋ぎ役っていうか、自分はその間でいいんですよ。そんな多くを求めてなくて。
僕が生きている間に双葉町が再生できるかっていうと、そんな簡単な話ではないっていうのは理解してますけど、やっぱりまず第一段階は双葉町を知ってもらうこと。知ってもらうためにどう行動するかっていうのを、わかりやすく、キャッチーに発信するっていうのが一つ目です。二つ目のフェイズは双葉町にきてもらうっていうこと。それぐらいが僕ができる限度なのかなっていいう気はしてます。あそこに行ってみたい、そこで食事することがかっこいいとか、それはできないことじゃないと思ってるんです。アートというものがあって、そういう要素はでき始めてるんで、そこに例えばおしゃれな雑貨屋さんがあったり、飲食店をつくったりして。そうすると、1時間かけてアート見て、食事して買い物して、那須みたいな感じの雰囲気になりえる要素はあると思うんですよね。原発被災地っていうところに、終わらせることは簡単ですけど、僕はもっと違うプラスの方向にいった方がいいと思ってるんです。
そういう活動をしていく中で、僕がどう思われたりとかはどうでもよくて、その覚悟ができてるからこそいまの現状に立ってるんだと思います。わくわく、ドキドキ、面白いとか、その連続が結果的に人を変えていくというか、価値観をかえていく、答えがでてくると、人の想像なんてすぐに超えていくということを現体験でしてるんです。
僕の中では、お金が一番じゃないっていう状態で世の中が動くしくみを成立させるっていうのが地方創生だと思ってます。もちろんお金っていうのはそこに対して、大切なものなんですけど、金をかせぐためじゃないものを肯定されるのが大事だと思うんです。例えば原発周辺地域が一番SDG'Sを実践してて、一番観光地化されてて、一番かっこいいことしてて、スタートアップ企業とかがみんなそこに来ようとしてるみたいな、福島県のあそこのエリアに、みんなが集結しようとしてるっていう流れになったら、何かの価値がかわってきてるっていうのは誰でもわかってくるじゃないですか。そういうわくわくする話を理解できる人たちとたくさん繋がっていきたいですね。
僕は双葉を復興させようとか思ってなくて、復興は元に戻すことだとしたら、もう元には戻らないし住んでた人たちも元に戻ることは求めてない状況じゃないですか。僕がやりたいのは再生であって。再生っていうのは新しいことを作り出すこと。僕らがやるべきことは再生するための活動。そこはぶれてはいけないラインだと思ってます。
高崎丈さん
昭和56年8月26日生 双葉町長塚生 双葉北小ー小高工業中退 東京調理師専門学校卒
(*1)JOE’SMAN 2号
(*2)オーバーオールズ
(*3)情熱大陸
https://www.mbs.jp/jounetsu/2020/08_16.shtml
(*4)赤澤さん OVERALLs代表の赤澤岳人さん
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