果樹園経営ー震災により休業 現在 大熊町文化財保護審議委員、おおくまふるさと塾顧問、福島県歌人会会員、楡短歌会会員
「梨畑を受け継ぐ」
両親は大熊出身(母/大川原、父/熊川)で、親が仕事の関係で龍ヶ崎にいる時に私は生まれした。でも戦争中で、竜ヶ崎には予科練(*1)の飛行場があって空爆が激しくなってきたので、生まれて1年くらいで母親と富岡に疎開したんです。富岡二小の前あたりで、母の父と姉の所に身を寄せました。
父は元々農家ではなく、色んな仕事をしていました。ポンポン船ていうエンジン付きの船を双葉郡で初めて買った人らしいんです。でもシケで船をなくしたらしいですけど。茨城の池貝鉄工ていうところで働いてる時に終戦(1945年)を迎えました。
梨畑は父が戦後大熊に戻り開拓に入って、4〜5反くらい植え始めたのを、私が19歳の頃受け継いだんです。その頃の果樹組合は熊町と大野は別々で、昭和40年に大熊町農協に合併しました(当時果樹組合は80名ほど)。梨農家をやる一方で、1991年に共同で洋梨を作る晩正梨生産組合(マルケイ園)を4名で発足しました。その発端は、当時誰が作ったのか大熊町のキャッチフレーズ「フルーツの香りただようロマンの里」というのに、果樹農家としては疑問だったからです。和梨では別にフルーツの香り漂ってないだろうと、それで香り漂う洋梨作りを始めたんです(苦笑)。
「避難所を転々として須賀川へ」
自宅は熊町小周辺の野馬形というところで、震災当時は私たち夫婦と長男(当日は新潟外出中)、寝たきりの母親の4人で住んでいました。地震が来た時は畑で梨の手入れ中だったんですが、経験したことのない揺れに、区長をやってた関係で、集会所や児童館を開放したり、巡回してまわったりしてました。熊川から津波で血だらけになった人も来ましたが、この辺まで救急車は来なくて、非番だった消防団員に消防車でスポーツセンター(避難所)まで連れていってもらい、そこで救急車呼んでくれと行かせました。スポーツセンターに行ってみるとアリーナが崩れかかってたんで、ロビーだけしか使えなくて人がごった返していましたね。それでウチには母がいたので家にもどって、家で夜を過ごそうかなと思ってたところ、夜の9時くらいに3km圏内に避難指示がでて、ウチにはいられないってことで、母を連れて野上の妹のところに行ったんです。これが一回目の避難でしたね。
次の早朝(12日)、スポーツセンターに行ったら、作業服を着て腕章も付けてない誰だかわからない、しかも名乗らない人が、「ここは危険だから、行ける人は西の方に逃げてください」というんですよ。どこへとは言わないで遠くに離れてと。車で行ける人は車で、ない人はバスが迎えに来ると。朝6時くらいにはもう三分の一くらいはいなかったね。その後町の方からも避難指示があったと思うんですが、自分たちは7時30分くらいには野上の妹のところを車2台で出発して、12時頃に一旦田村市の体育館に行きました。でもやはり寝たきりの母を入れられなくて、なんとか船引の保健センターに入れてもらいました。そこに二日いて今度はそこに新たに避難指示が出た都路の人たちが入ってくるというので、デンソー(*2)に行って17日までいました。デンソーにはサンライト(*3)の方たちも入ってたんですけど、母は一緒にはさせてもらえなくて、別な部屋に雑魚寝で入れさせてもらってたら体調が悪くなってしまいました。おそらくあそこに1週間以上いたら…最悪のことを覚悟してましたね。でも警察官だった一番下の妹の長男が須賀川のアパートを見つけてくれて、その日の午後移動しました。母は排泄だけじゃなくて排尿もパイプを通してたんですが、診てくれる医療機関も部品もなくて、しばらく交換できませんでした。それで須賀川で病院を探したんだけど、須賀川もひどかったのね。倒壊がひどくて。だから正式にはここは原発の避難は受け入れてないんですよ。でもなんとか病院を見つけて、訪問介護ができるまで震災から20日くらいかかりました。母はその時93歳で、そのアパートには4年いたんですが、だんだん弱ってきたので、ゆっくり療養できるように、2015年4月に須賀川にこの家を建てたんです。ここにきて3年くらいは生きててくれました。
避難生活中にも区長として住民や仕事仲間たちとは連絡をとってたので、携帯の料金が月3〜5万はかかりましたよ。地区には140戸くらいあって、前の年までに2年かけて防災組織を作ってたので、大体の世帯主の連絡先はわかってたんです。でも町営住宅に入ってた人までは全部はわからなかったですけど。
海渡神社(みわたりじんじゃ)2018年2月
「中間貯蔵エリアの自宅」
大熊の自宅は中間貯蔵の範囲ですが、条件次第で土地交渉に応じるといったんです。それは海渡(みわたり)神社を残すことでした。2011年3月21日の春分の日に、大熊ふるさと塾(*4)で海渡神社でイベントを企画して、地域の人にも見てもらう準備をしてたんですよ。地域おこしの一環として。それができなかったのが心残りでもあったので、そこを残すことを条件に土地交渉に応じて、地上権設定で貸すことにしました。海渡神社は貴重な存在であるだけでなく、小入野地区のお墓の竿石をあそこに集める事になり、結果残る事になりました。
「大熊ふるさと塾」
大熊ふるさと塾が生まれたのは、日本ふるさと塾の萩原茂裕先生(*5)がきっかけでした。大熊では平成5年頃から、町おこしのために萩原先生の講演を文化センターで毎月一年間やってたんです。次の一年は公民館や集会所などでもやってもらって、せっかく2年間お世話になったので、何か残したいと。それで講演を聞いた有志が40人くらい集まって、自分たちの町をもう一度見直そうと始めたんです。今でも年に数回は集まっていてワイワイガヤガヤやってますよ。その活動の中で地元の民話や一人一人の体験談をまとめた「残しておきたい大熊の話」(*6)や「大熊町方言集」(*7)、「日隠山に陽は沈む」(*8)を発行しました。「残しておきたい大熊の話」は発刊にあたって、文中であえて実名を使ってます。一応許可はもらったけどね。あと何十年かたった時に、これがうちの先祖だよっていってもらえればいいかなという思いで。
(*6)「残しておきたい大熊の話」2016年3月発行(写真1) 民話の編集や史跡調査をする一環で、地域の足跡を残そうと、町民約20人に改めて話を聞き、町史などで確認しながら31話をまとめあげた。
(*7)「大熊町方言集」2019年8月発行(写真2)
(*8)「日隠山に陽は沈む」2014年1月発行(写真3)
「双葉郡の未来」
もう元には戻るわけではなので、西部劇と同じように新しく開拓だと思いますね。震災時住んでた人は懐かしさで戻りたいっていうかもしれないけど、子供たちのふるさとはこの10年間で、他の町になっちゃったんですよ。その子孫が帰ってくるというよりも、これから来る新しい人たちが地域を作っていくんじゃないでしょうか?太平洋戦争戦後、何もない所に、ポツンポツンと入ってきた様な。そういう感じになっていくんじゃないかと思います。例えば廃炉産業とかイノベーションコースト構想の中で働く人たちが、住み着いていくような町づくりになるのではないでしょうか。
「我々は未来から土地を借りてる」
これから先50年、100年、1000年先まで、土地がある限りは誰かが住むんですよね。つまり長い目で見るとこれから子孫が使う土地を、我々は未来から借りてるということなんですよ。そこで我々が今やらなくちゃいけないのは、この地域は地元の住民だけのものじゃなく、今できることを精一杯やって後世に残してやりたい。そんなふうに思ってます。どんなふうになるかわわからない。でも新生双葉を少しでも良くしていくために。
その中で一番心配してるのは原発の廃炉です。40年なんていってるけど、おそらく100年以上はかかるかもしれない。そうやって壊したものを行き先なく仮置きの状態で置かれたら、原発の古墳になっちゃいますよね。それはしたくないなと。そんなの後世の人たちに残したくない。それがある限りは背中に爆弾背負ってあそこに住むことになっちゃいますから。若い人たちにここを受け継いでもらうには、やはりキレイな場所であって欲しい。ふるさと塾の原点である素晴らしい地域を残してやりたいと、これからも自分のできる範囲でお手伝いしていきたいと思ってます。
鎌田清衛(かまたきよえ)
1942年4月23日生
1962年3月福島県立双葉農業高校卒業ー就農ー果樹園経営ー震災により休業
現在 大熊町文化財保護審議委員、おおくまふるさと塾顧問、福島県歌人会会員、楡短歌会会員
(2020年12月取材)
(*1)予科練/「海軍飛行予科練習生」及びその制度の略称で、第一次世界大戦以降、航空機の需要が世界的に高まり、欧州列強に遅れまいとした旧海軍が、より若いうちから基礎訓練行って熟練の搭乗員を多く育てようと、昭和5年に教育を開始。
(*2)デンソー東日本(2014年4月にデンソー福島に社名変更)開所前の建屋を避難所として提供していた。
(*3)特別養護老人ホーム サンライトおおくま(休止中)。デイサービスや在宅介護も運営していた
(*4)大熊ふるさと塾 1996年大熊町生涯学習推進団体として発足。大熊町の町おこし活動として、古代米部会、歴史・民話部会、自然・木の実部会の三部会を運営。
(*5)萩原茂裕先生 経営コンサルタントを経て、都道府県地方自治体等、約500ヶ所以上の地域開発・観光開発を手がける。まちづくり・むらおこしを手がけた日本のパイオニア。「まちづくりは人づくり」を唱え、日本ふるさと塾を主宰する。
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