「自分の故郷がどれだけ傷ついているのかというのに気づき、自分に何かできないかなと思うようになりました」。
震災当時は,小学5年生でした.ちょうどホームルームをやっていた時間で、「お楽しみ会」で何をするか考えているところでした。すると誰かが「先生,地震だ」と、最初は小さな揺れでしたが,次第に大きくなっていき、全員机の下に隠れました。そして全員で学校の校庭に出ていたところに、当時僕はスイミングを習っていて、祖父が近くの駐車場まで用意を持ってきてくれてたので、まずは一緒に多くの人が避難しているふれあいドームに避難し、そこから学びの森に移動しました。そこでようやく父と母に会いました。兄は地震時に家にいたらしく、富岡二中に避難していて、家族全員が合流してからは、父の実家がある川内村に避難しました。避難してから次の日に原発事故が発生し、避難区域が拡張されたので、いわき市にある母の実家にお世話になりました。そこからひたちなか市、日立市多賀町と避難先を移し、さすがに何日も親戚の家にいれないということで、親戚の方が家を探してくれて、1年間は茨城県内に暮らしていました。この避難生活のなかで家族間の軋轢が生じていたことも確かです。
2011年4月からは新しい地で小学6年生の学校生活が始まりました。当時は福島県からの避難者が学校でいじめられたという報道もあったので不安でしたが、行ってみたらとても暖かく迎えてくれて、毎日が楽しかったです。当時は茨城県の沿岸部の津波で被害を受けて、一緒に転校してきた人が5,6人いて、全校集会で自己紹介をしたのを覚えています。その自己紹介のなかで、「福島県から来ました」というフレーズを添えたことを今でも覚えています。いじめられるかもしれない、差別を受けるかもしれない、そうした不安が募る中、なぜこのフレーズをあえて発言したのか、未だに自分でも理解していません。でもきっと、そのときの自分には少し「大人びた」自分が居たのかもしれないと慮ることがあります。それが終わった途端に、本当に予想外でしたが、クラスメイトないしは他クラスの生徒が声をかけてくれました。学校終わりに「遊ぼうよ」という誘いが来た時がものすごく嬉しかったですね。福島県から来ている転校生なのに誘ってくれたので、感極まった瞬間でした。当時の小学校6年生の1年間は、周囲が自分自身を「生かしてくれた」と、そう実感しています。
中学進学するときは、福島県内に戻るか、それとも茨城県の中学校に進むかが苦渋の決断でした。転校先の友達がものすごく優しく接してくれたので、その友達と同じ学校に行くか、兄の大学進学に合わせていわき市に戻るのか、とても悩んだ末にいわきを選びました。同じ福島県であるという面で前回の転校よりは多少不安は軽減されていましたが、慣れ親しんだ友人がいない環境はやはり不安でした。でも実際に入学してみたら富岡町での同級生が3人いて、すごく嬉しかったです。部活は、友達に誘われてバレー部に入り、やってみたら面白くて、3年間は部活に没頭していました。私が所属していたバレー部は、入部者はほとんど初心者なのにも関わらず、県大会には何度も出場するほどの強豪校でした。やはりバレーを通して得られたことが多くて、挨拶の大切さや親への感謝の心など、人間として成長させてもらえたのが中学校三年間の部活動でした。
「応急仮設住宅での貴重な経験」
「暮らし」という側面において言えば、「仮設住宅」での生活が当てはまります。兄の大学進学および自身の中学校への進学とともに隣県から引っ越してきたのはいいものの、「また誰も知らない、土地勘もないところで0から生活していくのか」と思ってしまう自分がいました。同世代の人があまり暮らしていないという点、思春期真っ只中という点、これらもこれからの生活に対する不安感を醸し出す要因であったと思います。ただ、私のような「ワカモノ」という存在が仮設住宅の中では珍しかったため、同じ富岡町民ということもあってか、挨拶をするとすぐに顔を覚えてもらい、非常に暮らしやすい環境へと変化していきました。もちろん、居住環境自体はメディアなどでも報じられている通り、不満が多い中での生活でした。しかし、それ以上に仮設住宅内での地縁的なコミュニティが著しく形成されていたため、居住環境の不満さえも消し去る勢いでした。すでにその仮設住宅は解体が進められていますが、私のなかで当時の「仮設住宅での暮らし」は一生の「財産」です。建物自体はそこから消去され、無かったものになってしまいますが、私の心の中には常に立地し続けており、いつか当時の暮らしのことについて「ワカモノ」同士で共有し合える日を実現させたいと思っています。
「ふたば未来学園に入学して」
中学卒業後の進路も,バレーの強豪校に進学するか迷いました。迷っている間にふたば未来学園高校の募集が目に入り、バレーボールだったら社会人のチームでもやろうと思えばできると考えて、ふたば未来学園高校に進学することを決意しました。地元に近くて、一期生なので新しい伝統も作れるし、休校になった先輩方の伝統も受け継げるという思いでの決断でした。入学してからはやはり富岡町出身の子が多くて安心しました。「これからやっていけるな」と心から思えましたね。
印象に残っているのは、「ふたばワールド」に生徒会として参加して、休校した学校の先輩とコラボしてグッズを販売したことです。先輩方と一緒に活動したのが一生の思い出ですね。もう一つは,「Music for tomorrow in Fukushima」というイベントで「四季双歌」という歌を渡辺俊美さんとアメリカの音楽家の方と一緒に作ったことです。実際に当日に歌った時には,鳥肌が立つほど感動しました。部活動はバレー部がなかったので陸上部に入りました。正直なことを話すと,1,2年生の時にはあまり力が入らなかったのですが、後輩に足の速い人が入部することを知ってから競争心が湧いてきて、地区で表彰台にのぼれるほどになりました。部活動の大会がひと段落してから、その後の進路についても考え、その中で震災に関して考えるようになり、大学もその専門分野を学びに行こうと思いました。そのきっかけは初めての一時帰宅です。人はいないし、建物は崩れっぱなしだし、通っているのはトラックばかりで、あちこちで動物が歩いている…。以前自分が住んでいた町とは思えませんでした。この経験から、自分の故郷がどれだけ傷ついているのかというのに気づき、自分に何かできないかなと思うようになりました。
現在は災害や復興について学べる大学に通っています。双葉郡に近く、現地の声を聞く環境がある大学を選びました。これからは、専門的なことを学びながら、高校一年生の時から継続している「ふくしま復興大使」の活動と、双葉郡未来会議の活動にも積極的に参加しながら、現地に足を運び、現状について自分の目で確かめることをしていきたいと思っています。
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