「双葉郡未来会議 season7 ~特集!牛たちの行方~」開催レポート 3

「双葉郡未来会議 season7 ~特集!牛たちの行方~」開催レポート 3

トーク/吉沢正巳さん(浪江町/希望の牧場)

 「希望の牧場福島」代表の吉沢です。南相馬小高区と浪江町に牧場はまたがっています。大体30ヘクタールくらい面積に300頭程度の和牛を飼っています。僕の牧場は福島第一原子力発電所から直線で14kmあり、南東のほうにイチエフの排気筒が見えます。ここで飼われていたのは自分の牛ではなく、二本松市岩代にある「有限会社エム牧場」の村田社長の牛330頭を繁殖、育成、肥育ということでやっていました。震災当日の11日から1週間ほど、僕は牧場に残り、牛に水や餌をやり続けました。村田社長に牛をどうすれば良いか相談しに、114号線を行ったり来たりもしていました。

 僕が最初に国に抗議に行った3月18日に村田さんは牧場の牛を全部放してしまいました。全滅させるよりは放してしまおうということで。1週間ほど僕は抗議活動をしながら牧場に帰ってきました。社長は牛を見捨てないようにしようとおっしゃるわけです。それから村田さんと僕は2人で、裏道を抜けたり、検問のバリケードをどかしたりしながら、避難区域に出入りして牛たちに餌を届けていましたが、困ったことに、4月22日に警戒区域に指定され、出入りが規制されました。それでも出入りしていましたが、5月12日に国から牛を全部殺処分しなさいという指示が出ました(同意したものだけ)。社長と2人で国の殺処分指示は絶対に受け入れない、と決めました。近所の酪農家さんの牛舎では11年の夏から秋にかけて多くの牛が餓死しました。ほとんどの酪農家は近所迷惑になる、ということで牛を繋いだまま避難したんです。水も餌もなく、多くが餓死しました。死んで腐って、ウジがわいて、それが死体を食い尽して、最終的に骨と皮のミイラになった。こういう場所を何回も見ました。こんな状態にしないようにしようと決めました。でも、国は殺処分の指示をしたわけです。農水省や福島県家畜保健所の職員の人たちが野良牛を捕まえては、持ち主に確認をして薬殺する。たくさんの牛たちの殺処分の現場を見ました。やむを得ないことなんでしょう。繋がれたまま餓死した牛は1,500頭、殺処分された牛は1,800頭。そこらじゅうで地獄のような光景を見ました。

 僕たちはとても困りました。被災した牛は国からの指示で、売買したり、移動させたり、繁殖させたりしてはいけないので、取引は全部キャンセルとなりました。被爆した牛を生かす意味について非常に困ったわけです。旧民主党の「高邑勉」さんという若い国会議員が、南相馬市に被災地支援で来ていて、「牛たちは放射能汚染の事故を記録に残す生きた証拠になる」とおっしゃいました。それがきっかけとなり、「希望の牧場フクシマ」を作って牛たちを生かす、というふうに始めました。近所の離れ牛。首にロープが食い込んで腐っている牛、そういう牛たちもいました。のちに主に楢葉町なのですが、「約100頭の牛を国の殺処分から助けてくれ」という話がありました。そのときは引き受けて、希望の牧場に運んでいます。

 牛たちは生きるために汚染された草を食べています。事故からおよそ1年経ったときから、白い斑点模様が出る牛がいました。実際に獣医師に来てもらい、いろいろと意見をもらいました。皮膚病ではなくメラニン色素が突然変異して、白い斑点模様ができるようになったそうです。こういった牛は今も20頭ほど生きています。僕たちはこの原因を継続的に専門家がちゃんと調べるべきだ、と思っています。

 当時、林農水大臣をやっていた林さんに、旧みんなの党の「渡辺喜美」議員の力を借りて、直接申し出をしました。殺処分を指示しているのは証拠隠滅ではないか、国がちゃんと原因を調べるべきだ、と申し出ました。それから、つくば市にある動物衛生研究所が牧場に来て血液や尿、皮膚の採取をしていきました。そしてわかったことは血中の銅がとても欠乏しているということです。それを補う添加剤もしばらくやりましたが、模様は消えないんです。それについて農水省は「被曝の影響を調べるのは文科省の仕事だ」と言い出しました。しかし文科省は「牛は農水省。だから文科省に言われても困る。」と。官僚の人たちはやりたくない事のたらい回しが非常に上手です。牛たちの斑点模様が被曝に関連があるかの解明については、福島県の農業や畜産の進行には役立ちません。ですから農水省や福島県は嫌がるんです。風評のもとになるんじゃないか、と考えるわけです。農林水産省は因果関係についてはわからない、という返事を最終的にしました。私はこれは目の前で起きている事実として、研究者に徹底解明をしてほしいんです。わからない、ではなくちゃんと調べてほしい。

 被災した牛たちは寿命が来るまで牧場にいます。全国から寄せられる大勢の支援者の皆さんのご寄附のおかげです。私は被災から2021日3月まで10年を目標に頑張ります。そして自分の今後の人生をかけながら、直接被災した牛だけでなく、その子の世代、孫の世代、ずっと牛を飼い続けます。希望の牧場はメモリアルファームとして大勢の見学者の方々に、継続的に見て考えてもらいたいと思います。原発事故を牛を通じて伝え続けていきたいです。そして日本が原発を持たない時代を何とかして作り上げていきたいと強く願っています。

 私は牛飼いなので、最後まで牛に餌を与えつづけます。それに一体何の意味があるか。ずっとその意味を考えています。希望とは何か。やはり僕らは人間だから押しつぶされてはならない、と強く感じるんです。前向きにいかなければいけないと思います。賠償のお金をもらってそれで償いがすむか。そんなことは難しいと思います。でも私は酪農家として、この経験や体験を世界に向けてこれからも、ずっと伝えていきたいと思います。それでは、終わります。

(吉沢さんは警戒区域時代に、ほかの牧場の放れ牛を自分の牧場に運んだり、飼育し続けていた他の牧場まで餌を運搬したりしていました)

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