「サテライト高校」の風化を憂える

「サテライト高校」の風化を憂える

平成29年3月、双葉郡内の5つの高等学校が休校となりました。
休校に寄せて、サテライト校の運営に尽力された先生よりご寄稿頂きました。

「サテライト高校」の風化を憂える
福島第一原子力発電所事故にともない、避難先へ移動した双葉郡在郷5高校

 平成29年3月31日-福島県立浪江高等学校・同浪江高校津島校・同双葉高等学校・同双葉翔陽高等学校・同富岡高等学校の計5校は静かにその幕を閉じました。平成23年3月11日の東日本大震災・福島第一原子力発電所事故の発生から一度も元の校舎へ帰還できず、新設高校の開設にともない、募集停止となり、最後の卒業生が去ったこの3月末日に休校となりました。
 サテライト校とは?「本校舎でなく、遠隔地に校舎を構えてそれぞれ教育を行う形態の学校」であり、受験予備校では広く認知された形態でした。しかし震災・原発事故では多数の双葉郡民が県内外に避難し、高校の存続が危ぶまれ、やむなく設置されたものです。
 
 この年、5高校の高校入試は特例により全員合格。通常の定員より多くの入学許可が下りました。しかし、新入生の喜びもつかの間、通えるはずの学校再開の見通しつかず、不安な毎日を過ごしました。
 県教育委員会では、事故のため学校が避難する窮状を打開するため、県内の避難先近隣高校を間借りして各高校を存続できないか検討を進め、地域住民が多く避難する町村の高校へ調整してきました。震災から約1ヶ月後、4月9日以降県内各地でサテライト方式について生徒保護者へ説明会を実施しました。各高校生徒・保護者達は決断を迫られました。サテライト高校へ行くか?転校するか?非常に悩ましい日々を送ったと推察されます。生徒の概算人数が出そろった4月22日に教職員配置案が各高校へ通知。こんどは先生方がどの学校へ行くのか選択を迫られました。
 5月9日(月)から県内各地の高校へ生徒達が登校してきました。通常の始業式よりも1ヶ月も遅れて新学期が開始されました。震災前の生徒がすべてそこに居た訳ではありません。この約2ヶ月で、たくさんの有為な高校生が母校を去って行きました。。
 しかし、再開したサテライト高校の環境は厳しいものでした。教室は他の高校の一教室。中には同窓会館や公民館の1室をパーティションであてがわれたものもあり、理科室や家庭科室、体育館、パソコン室などの実習も自由にできず環境はけっして良好とは言えませんでした。学校が分散したため部活動の円滑な練習も困難を極めました。週末のみ遠隔地の練習会場を確保し、一緒に練習する形態を取る部活動もあり、先生・生徒・保護者の奮闘の数々は涙なしには語れません。
しかし、全国から支援や励ましのメッセージが各サテライト高校に届き、元気をもらいました。特に県の援助で「被災高校生を愛媛県に招待したい」と修学旅行援助を申し出た愛媛県中村知事には感謝の言葉もありません。あの年のサテライト高校2年生にとってよい思い出になったことでしょう。他にも日本赤十字社の義援金や浄財を寄付された方々に感謝をお伝えできませんでしたので改めてこの場を借りて御礼申し上げます。
平成24年4月からサテライト高校の集約が行われ、4校は複数箇所から1カ所に集約されました。(富岡高校は複数サテライト配置を継続)23年度の1年間と合わせて、約5年間でサテライト高校は幕を閉じました。

 サテライト高校の経験が意味することは何か?それは、高校の存在は地域に支えられているということ。地域がバラバラに四散した中でサテライト高校を存続させて行くことは困難であるということです。双葉郡民がそれぞれ分散した中で1つの高校へ生徒を通学させることはきわめて困難なことです。通学困難な生徒には宿泊施設(寮)確保も必要です。教員には寄宿生徒の生活指導もあります。寄宿舎へ教員が訪問し、生活状況をチェックすること、寮の舎監との連絡調整も大きな負担です。生徒が肥満傾向になり、養護教諭が生徒の栄養状況を調べ、直接指導することもありました。
 事故後サテライト高校を設置でなく、避難先の高校へ編入すべきだったとか、(新設高校設立以前に)もっと早く1つの学校に統合すべきであったという意見もありますが、はたしてそれが最善策なのでしょうか?
 県教育委は各町村の復興状況に応じて現地で学校再開を企図してその間、少しでも異境の地で元の在郷生徒と一緒に学べるサテライト高校を設置した経緯があります。環境で不備はたくさんありましたが生徒集団と地域をつなぎ、立派にその役名を果たしてきたサテライト高校。休校になってもどうかその名前を忘れず復活へ望みをつないでもらいたいと切に願います。