双葉郡未来会議 season 5 /特集!J-VILLAGE より 石崎 芳行さん(東京電力ホールディングス(株)福島復興本社代表)の報告

双葉郡未来会議 season 5 /特集!J-VILLAGE より
石崎 芳行さん(東京電力ホールディングス(株)福島復興本社代表)の報告

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【J-VILLAGE創生期】
 皆さん、こんにちは。ご紹介いただきました、東京電力復興本社代表の石崎でございます。まずは、私たちの原発事故で、本当に、皆様方に大変なご迷惑・ご心配をおかけし続けておりますことを改めまして深くお詫び申し上げます。本当に申し訳ございません。そのような中で、先ほど、上田さんや西さんからもお話しがありましたけども、このJ-VILLAGEを福島県からお借りして、廃炉の前線基地として使わせていただいているということであります。特に、西さんが先ほど「あたたかい食事を作業員さんや社員にも食べさせたい」ということで、わざわざ帰ってきて頂いたということは、社内でも本当に語り草になっております。我々の大恩人だということで、震災前から、そして今も大変お世話になっております。本当にありがとうございます。

私も実はJ-VILLAGEとは非常に深いご縁がありますので、そういったお話を交えてさせていただきたいと思います。
お手元の資料の1ページにあるように、J-VILLAGEはちょうど福島第一原発から南に20kmのところにあります。1997年にオープンしまして、当時の東京電力が作り、それを福島県に寄贈した設備です。その当時、社内でJ-VILLAGE計画を作り、そのJ-VILLAGE計画の稟議書に最初にハンコを押したのが、当時の私でした。なぜ当時、東京電力が作って福島県に寄贈したかというと、日本の電気事業というのは、明治に発足をしました。最初は水力から始まり、水力、火力、そして、この福島では原子力。東京電力の前身から水力、そして東京電力になってから火力発電所、そして福島第一、第二原子力発電所と、東京電力は福島県に電気事業で大変お世話になっております。そういう明治以来お世話になっているそのご恩を少しでも形としてお返ししたいということで、このJ-VILLAGEというものを作り、それを福島県に寄贈しました。
日本の国の制度で、原子力発電所や火力発電所を作ると、県や地元の自治体に交付金や補助金が出る仕組みがあります(電源立地交付金制度)。当時、J-VILLAGEにはある程度の費用をかけたのですが、東京電力1社で福島県に寄付するというのは、国の交付金制度に違反するというご批判をいただきました。当時の通産省からも呼び出され、私も当時の役員と鞄持ちで行ったのですが、国の制度に反して、ポンと福島県だけに寄付をするというのは許さない。というお叱りをいただき、その時に一緒に行った役員がお詫びをして引き下がると思っていたのですが、「福島にはお世話になっているので、これは会社の経営判断で、どんな批判を受けてもやります」と言い切りました。その時に、当時の通産省、今の経産省ですけれども、そのトップクラスの方は、「わかった。二人ともここからすぐに出て行け」、「二度とお前らの顔を見たくない」、「出入り差し止め」と言われたのを覚えています。それでも当時私と一緒に行った経営者は、ドアを強い勢いで閉めてその部屋を出て、私はオロオロしながら後ろをついて行きました。その経営者を私は今でも尊敬しております。まあ、過去の人ではありますけれども。そういうことで、私も出入り差し止めになった一人です。そんな思いでこのJ-VILLAGEを作り福島県に寄贈しました。先ほど上田さんからご紹介にありましたように、1997年にオープンして、1999年の10月に天皇皇后両陛下がJ-VILLAGEや広野火力もご視察いただきました。本当に私も半信半疑で、こんな施設を作って寄付していいのかなという思いで正直やっていましたけれども、当時天皇陛下にまで来ていただいて、すごく誇らしく思ったことを覚えています。この施設が作られて、女子寮・男子寮ができ、サッカーの英才教育が始まりました。この地域はサッカーのレベルがグッと上がって、ワールドカップがあって合宿が行われるというと、2万人を超える観客の皆さんが集まったんです。そういう賑わいを私も見てきたので、今のこと震災直後の光景を見ると、本当に、なおさら申し訳なく思います。
あれから約20年経ちました。残念ながら、福島第一がとんでもない事故を起こしてしまい、今でも福島の皆さんを中心に大変なご迷惑をおかけしておりますけれども、地震があったときに私は東京の本社にいました。震災の前の年まで、福島第二の所長を3年間やっており、この3年間、富岡町に住ませていただきました。それが福島との直接的な関わりでが、富岡町、浜通りに住ませていただいて、こんな素晴らしいところはないと正直思いました。海あり、山あり、川あり、温泉あり、そしてゴルフ場が楢葉町と富岡町に1個ずつある。そして、食い物とお酒が美味しい。将来必ず、私は富岡町を中心に浜通りに住もうと思っていました。

【震災直後の動き】
 震災が起きたのが金曜日で、実は翌土曜に富岡町に新しいアパートやマンションの内覧会があり、それに行く予定でした。その内覧会に行って、部屋を借りて、将来定年になったら、そこを拠点にして終の住居を探そうと思っていましたけれども、それどころではなくなりました。私は当時本社にいましたんで、すぐ緊急に対策本部というところの一員として、そのあとは福島第一の状況がどんどんどんどん悪くなっていくのがテレビ会議で入ってきて、亡くなった吉田所長の叫び声が今でも耳に焼き付いていますけれども、自分でも映画を観ているような、そんな状況でした。その時は福島第一も心配でしたが、自分が前年までいた福島第二の所員や作業員の皆さんもすごく心配でした。それから富岡町・楢葉町の人は大丈夫かなと、それだけを実は心配していました。福島第二はなんとか私の後任の増田という男が救ってくれましたけれども、福島第一は残念ながらこういうことになりました。そして、双葉町や大熊町の方とも仲良くさせていただいていましたけれども、そういう皆さんを全員避難させてしまった。そして、素晴らしい福島を放射能で汚してしまったと、私は本当に申し訳なく思っております。ですから私は、生ある限り、会社が起こしたこのとんでもない事故の責任を、一人の社員というか、一人の人間・男として背負って、しっかりと福島の皆さんのために生きていこうと思っております。
 震災の直後に、福島第一の状況がどんどん悪くなっていく中で、本店の対策本部で政府関係者や警察関係者、自衛隊関係者がどこかに拠点を作らなくてはいかん、どこかないか?という叫びのような声が聞こえたときに、私はすぐ、J-VILLAGEがあると思いました。地図で見ると福島第一から20kmの半円状に警戒区域が敷かれ、J-VILLAGEがちょうど20kmのところにあり、そして、これだけ広い施設。11面のサッカーピッチがある。そこは必ず拠点になる、泊まることもできるということで、政府関係者にこのJ-VILLAGEを使うことを進言しました。すぐにそうしようということで決まると、当時は、自衛隊のヘリ、消防車、化学消防車、装甲車、そして戦車まで来て、J-VILLAGEに集結しました。作業員さんの皆さんも社員も、ここに集まり、フルフェイスのマスク(全面マスク)と白装束の格好(防護服姿)で、毎日大型バスで20km北の福島第一に行き、作業を終えてクタクタになってまたここに帰ってくる日々。そして、床に白い服のまま、みんな寝っ転がっていました。本当に何もなくて、非常食しか食べられなかった。いや、これは本当に大変だ、いつまで持つかな、というのが正直な印象でしたけれども、そのいう日が続いた中で、西さんが戻って来てくれたというのは本当に有り難かったです。そういう意味で、J-VILLAGEと西さんの存在がなければ、もっともっと酷いことになっていた、というのが、私の正直な印象です。

【前線基地として】
 (2)に写真がありますけれども、戦車です。前線基地であり、いろいろな物資の拠点、ここに集めていろんな物資をここから提供したりしました。J-VILLAGEは、当初は白い防護服を着てここからバスで行ってもらっていましたけれども、サッカーピッチが11面あり、メインの3、4、5番ピッチに砂利を40cmぐらい入れさせてもらい駐車場にしました。今は、少しずつ芝生の再生工事に入って綺麗にして福島県にお返しするという作業をやっています。
 当初はいろんな基地でした。(4)には、ここに当時いた人たちの人数があります。昼、夜で若干人数の変動はありますけれども、常駐している人と、いろいろ現場から戻ってくる人が混在して、700〜800人くらい人がたむろしているような、そんな状況でした。スタジアムは天然芝の上に砂利を敷いて鉄板を敷いて、社員用の仮設の社宅を作らせていただきました。全部で1,000戸ほどありますが、今は大熊町や楢葉町に社宅を作り、そちらに引っ越しをさせています。いずれこれを取っ払い、また5,000人収容のスタジアムを復活するという事です。そういう震災からの機能を段階的に福島第一の方に移してきました。そのため今日皆さんがJ-VILLAGEにいらしても、比較的閑散とした、落ち着いた感じを受けたかもしれないです。そして、(7)の左上にあるように、2013年の1月にJ-VILLAGEに復興本社の立ち上げをさせていただき、2016年3月に富岡町に移しました。約120名がいま富岡町で働いています。なぜ富岡町かというと、富岡町はまだ残念ながらお一人も帰還が許されていない地域であります。日中、立ち入りが自由なところもありますけれども、そういったところに復興本社を移して、復興本社の社員とそれから他の部門の社員が、こういう格好(制服)で仕事をさせていただいております。福島の皆さんにとって事故を起こした東京電力は絶対に許さない、そういう憎い存在であることは十分承知しておりますけれども、憎っくき東電であっても、社員が制服を着て、まだご帰還が許されない富岡町で元気に仕事をしている。そういう姿をお一人でも多くの方に見ていただければ、少しはご安心いただけるのではないか。そんな思いで復興本社を今年の3月に富岡町に移しました。
 そして、いま使わせていただいている機能も、今年中には全て引き払い、いよいよ本格的な復旧工事に入ります。2018年の夏には、前よりももっと綺麗なJ-VILLAGEに戻すというのが、私たちの目標のひとつでもあります。

【福島復興支援の拠点として】
 復興本社として、2013年1月1日からここをお借りしていましたけれども、復興本社の取り組みとして、毎日、社員をこのJ-VILLAGEに、2泊3日とか3泊4日で来させて、避難区域の各地に向かわせています。何をやっているかというのは、この(8)に少し写真がありますけれども、家の片付けとか、お墓の清掃とか、草刈りとかです。いろんな要請をいただいて、社員でできることは社員でやらせていただいております。今はそういうひとつの拠点としても使わせていただいております。そして、こういう活動をするときには、社員に制服を着ていきなさいと命じています。正直言うと、社員のみんなは嫌がりました。こういう活動をしていると、一時帰宅をした住民の方とお会いする機会がたくさんあり、やっぱり厳しいことを言われるんじゃないかと、だから制服着ていくのが嫌だと、東電の社員だと名乗るのが嫌だという社員もいましたが、私は絶対に許しませんでした。やっぱり東電社員であるからには、事故を起こした責任を、住民の方に一人ひとりがお詫びした上で、誠心誠意に作業をやって来いと、汗をかいて来いということで、すでに、のべ280,000人を超えました。こういった活動はこれからももちろん続けて参ります。こういうこともやっているということを心に留めていただければ幸いです。

 ということで、雑駁な話になりましたけれども、わたしはJ-VILLAGEがあって良かったなと、つくづく思っております。このJ-VILLAGEとのご縁というのは、本当に今思うと不思議なものというか、宿命みたいなものを感じます。これからお世話になったJ-VILLAGEを綺麗にして、そして復興のシンボルとして、またこのJ-VILLAGEに住民の皆さん、できれば子供達、親御さん、そういう方々がたくさん集まり、ここを笑顔あふれるサッカーの聖地にしたいと思っております、時間はかかりますけれども、しかし東京オリンピック、パラリンピックというひとつの大きな目標があります。東京の方でガタガタ揉めていることもありますが、私はそういう明るい大きな目標ができるということはすごく良いこと、大事なことだと思います。廃炉作業そのものは30年、40年かかる、確かに厳しい、ある意味後ろ向きの仕事であります。その廃炉作業から出てくるイメージというのは、危険だ、こんなところ2度と住めないんじゃないか、そういったイメージを持たれる方、特に風評被害を含めて、国内でもそういう評価をされる方がいます。まして海外の方は、いろんな誤解があります。福島第一も、震災以降、実は2万5,000人を超える国内外の方にご視察いただいておりますけれども、特に海外の方は、どうせ福島第一もチェルノブイリと同じだろうと、手付かずにみんなオロオロして、ただ住民の皆さんが避難しているだけだろうという目で見ている方が多いのです。でも海外の方が福島第一をご視察いただくと、毎日7,000人を超える作業員さん、その作業員さんの実は55%は福島の皆さんで、社員も1,000名ほどが関わっておりますが、そういう人たちが毎日毎日努力して、この5年7ヶ月で、福島第一の廃炉の状況はここまできたのかと驚きをもって見られるという今日この頃になってまいりました。これから廃炉作業はまだまだ大変なチャレンジが続くわけですけれども、そういう厳しい面と、まちづくりという意味で、その周辺の町はここまで復興したんだということを、ぜひオリンピックのときに世界中の方に発信したいと思っております。その復興のシンボルがまさにこのJ-VILLAGEになると思いますし、そうしなければいけない
という思いでおります。そのためには、住民の皆さんや県や国の皆さんや自治体の皆さんと一緒になって、東京電力も同じ方向に努力する仲間だと認めていただきたいという思いが私には強くあります。まだまだいろいろ至らぬ点ばかりでお叱りをいただく場面もありますけれども、しかし、少しずつ、必ずできると思っています。これからもいろんな意味で皆さんのお力を、ご支援をいただければと思います。事故を起こした立場で偉そうなことは言えませんけれども、ぜひ、これからもいろいろな面でご支援をよろしくお願いします。
 広島・長崎が世界平和を求める人の聖地になっています。この福島・浜通りを、私は、50年後、100年後のエネルギーを語るときに、まず福島の実態を見て、そして今後のエネルギーのことをこれからのまちづくりを考える、そういう聖地にしたいと本気で思っております。そういう思いをもって、また、地元の皆さんと一緒になってがんばってまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。ご静聴ありがとうございました。