陶すえ 正徳まさのり さん | 浪江町

すえ 正徳まさのり さん | 浪江町

大堀相馬焼 陶徳窯10代目
出身:浪江町

大せとまつりの準備の最中に

高校を出てすぐ、愛知県瀬戸市の焼き物の専門学校に行きました。瀬戸物というくらいですからね、陶芸に関しては、知識も材料もなんでも揃う場所でした。そのまま現地で地元の作家さんに就職し、そこで5年間働いた後、25歳のときに大堀に戻りました。もともと家業を継ぐのが大前提で、他のことはあまり考えなかったですね。他の窯元の跡取りの中には、最初からやらないって言っていた人もいましたけど、自分は親父の後を継いで陶芸をやると、そういうものだと思っていました。

陶徳窯に戻って、僕は作りたいものを作っていました。いわゆる伝統的なスタイルの大堀相馬焼は親父がやっているし、全部同じでなくていいと思いましたから。特別景気が良かったわけではないけれど、そこそこやっていたという感じです。毎年5月の大せとまつりは窯元にとって一大イベントで、東日本大震災が起きたのは、ちょうどそれに向けて準備している最中でした。

当日は工房で仕事していました。うちは成型した粘土を乾かすのに車庫の前に並べていたんですけど、(屋根が落ちて)車がつぶれちゃ大変、とにかく車出さなきゃって、一生懸命作ったもの全部ガチャガチャ―ってどかしたのを覚えています。それから、僕は消防団に入っていたので、他の団員と一緒に屯所に集まってすぐに見回りを始めました。翌朝はみんなで津波の捜索に行くぞということで、待機してたんです。

ここにいたら死ぬかな

それが翌朝、6時頃だったかな、(原発で事故があり)逃げろということになって捜索は中止。そのときは10キロ圏外に避難せよという話で、大堀のあたりはギリギリ10キロなんです。そのちょっと外に「やすらぎ荘」という施設があったから、そこへ住民を誘導したんですが、その日の夕方でしたか、原発が爆発したと。自分も煙を見ましたよ。でもそのときは、まだ何が起きたか分かってなかった。正確な情報もないし。その2時間くらい後かな、白い防護服を着た職員が来て、もっと先まで逃げろということになりました。

消防団はボランティアです。その段階で、家族を連れて町外へ逃げる人も出始めて、最後は解散しようということになり、僕らも急いで逃げ始めました。たまたま親戚が郡山にいたので、親は先に津島経由でそこへ行っていて、後から僕も友人を連れて合流しました。とにかく突然のことで、ガソリンが入っていない車もたくさんあったので、みんな乗り合いで逃げたのです。親はすぐにまた埼玉県川口市の姉のもとへ移動しましたが、自分は友人を連れている関係上、数日郡山にとどまりました。

が、まもなく郡山も危ないということで、その親戚も一緒に、郡山南インターから東京方面へ向かったのです。もうガソリンは切れて赤いランプがついていました。そのまま高速に乗るのはリスクでしたけど、ここにいたら死ぬかな、と感じていましたから。実際には、サービスエリアで1回10リットルだけ入れることができました。とりあえず関東各地で友人を下ろしてから、川口へ行って再び親と合流しました。

死んだ方が楽だったかもしれない

両親は、もう浪江には戻れなくても、やはり友達のいる福島県には戻りたかったんですね。まもなく郡山の親戚の近くに家を借りて戻っていきました。2011年秋には小さな窯を作って陶芸も再開しています。でも僕は、原発が爆発した音も聞いてるし、とてもじゃないけど帰るのは無理と思って、さいたま市内にアパート借りて一人暮らしを続けました。

でも、何かしないと生きていけない。仕事しないで黙っているほどつらいことはないですよ。津波で亡くなった同級生もいますから、最初のうちこそ「自分は逃げられて良かった、助かって良かった」「仕事もしなくていいし、自由で楽だな」と感じていましたが、それを越えたら、「死んだ方が楽だったな」と思うようになりました。黙っていれば、あいつは何もやっていないと言われているような気がしたし、時間があると良くないことも考えてしまいます。このとき生まれて初めて、キャリアチェンジも考えました。実際、割り切って短期のアルバイトもいくつかやりました。でも自分は高校を出て焼き物の専門学校にいって、陶芸の他に何もしたことがない。やってできなくはないだろうけど、結局、自分にはこれしかないと思ったのです。

そのころ、ヨーロッパのとあるアーティスト・グループが福島からアーティストを呼んで話を聞きたいというので、僕らを見つけて声をかけてくれたんですね。大堀相馬焼からは僕を含めて2人、招待されました。どんな団体か全く分からなかったけど、自分は一人身だったし何もやってなかったから、とりあえず行ってみようと。それで、ベルギー、フランス、スペイン、3か国の6都市を回って講演しました。2012年4月のことです。震災・事故から1年後の様子を話してほしいということでした。その際、陶芸家のところもいくつか回って、現地の日本人に手伝ってもらってワークショップなどもやっているうちにご縁がつながり、その後毎年ヨーロッパに行きました。行くと観光ビザで3ヶ月まるまる滞在し、作陶に専念。外国の焼き物に触れるのは面白かったですよ。向こうはオブジェとかアートが多くて、僕らが作るものは逆に珍しがられました。(大堀相馬焼の)二重焼きなんてあちらにはないですからね。

ある程度割り切ることも必要

放射能汚染の不安から埼玉にとどまりましたが、そもそも関東にずっと住む気はなく、いずれは帰るつもりでいました。そろそろ戻って住む家を探そうと考え始めたとき、両親が郡山に借りていた家土地を買って再建・改修し、工房・ギャラリーを本格的に再開することになったのです。そこでまた一緒にやろうと、改修が完了する直前の2016年2月に郡山へ戻ってきました。ところが、その4月に脳梗塞を患い、その1年はリハビリに費やすことになってしまいました。いまは、完全に元通りとは言えませんが、おかげさまでほぼ回復しています。そして翌年、復興支援で大阪から来た妻、かおりと結婚。この8月には第一子が誕生します。

放射能に対する懸念は無くなってはいないですよ。特に福島に帰ってきて最初のころは、食べものの産地など結構気にしていました。でも、いつまでもそれを言っていても仕方ない。ここでずっと暮らしている人もいるわけです。ある程度割り切らなきゃいけないとは思います。だけど、太平洋の海がぜんぶ安全なのかといったら、そうじゃないかなという気持ちもあります。(放射線の影響は)先にならないとわからないことですからね。とはいえ、それを言ってたら生活できません。慣れていくっていうのもあるでしょうね。

今は妻が身重なのもあって、僕は浪江にはなかなか行けませんが、両親は月1回くらい、大堀の家を掃除しに行っています。帰れるかどうかは別として、あそこはきれいにしておかないと、ということです。大堀の避難指示が解除されたらどうするか、ですか?・・・・・・わからないですね。1軒だけでも帰るかといったら、それは帰らないでしょう。前のようにみんなで戻れるなら、みんな戻りたい。誰もこの状況を望んだわけではないので。でもそれは現実的じゃない。だから町の状況、周りの状況、自分たちの状況、いろいろ考えて判断することになるでしょう。僕の中では、大堀の自分の土地に小さい家でも建てて、こちら(郡山)と行ったり来たりきたりするのが理想ですね。

大堀相馬焼への思い

大堀相馬焼自体もこの先どうなるのだろう、と考えます。自分らの代のうちは、大堀を離れても大堀相馬焼というストーリーを語ることはできるけど、この先どんどん代が変わっていったら難しいでしょうね。大堀相馬焼という伝統的工芸品は、窯元がそれぞれ個性を生かして手作りするものです。戦後、海外で人気が出た頃は規格をそろえる必要があって、同じものをたくさん作って問屋に卸すこともありましたが、本来の作り方や売り方は窯元によって違います。陶徳窯はあくまでも自分たちでろくろを回し、自分たちで絵付けをし、自分たちで売ってきました。

原発事故後ふたたび大堀相馬焼が注目されるようになりましたが、いまでは他所の職人に頼んで作ってもらい、それに馬のシールを転写して「大堀相馬焼」として売られているものもあります。産地を追われてみなバラバラになり、避難先で再開した窯元も限られ、職人も少なくなる中で、致し方ない部分もあるかもしれませんが、なんともやるせない気持ちになります。僕は、陶という名前で代々続いてきた大堀相馬焼を受け継ぐために、これまでやってきました。簡単にやめてしまっては先代の人たちに申し訳ないという気持ちの一方、「大堀相馬焼」というものが変質していってしまうなら、これ以上焼き物を続けていく意味があるのかと、自問を繰り返す日々です。

大堀相馬焼「陶徳窯」
住所:福島県郡山市田村町金屋字上河原176
TEL:090-4476-8406
URL:www.facebook.com/Oborisoumayaki.Suetoku
インスタグラム:www.instagram.com/oborisoumayaki_suetoku

2018年5月取材
文/写真:中川雅美