渡部わたなべ 典一ふみかず さん | 浪江町

渡部わたなべ 典一ふみかず さん | 浪江町

小丸共同牧場
出身:浪江町

牛も生かしてきたけど、我々も生かしてもらってきた

畜産は祖父の代から始めて、最初は堆肥をとるっていう形だったんですけど、実際に繁殖として規模を拡大したのは私の代からです。平成5年に退職して家に帰ってきてからですね、本格的にはじめたのは。平成10年くらいから少しずつ増やし始めました。

震災の時は牛舎に行った時にグラグラときた。避難指示が出ても避難するつもりはなくて1ヶ月近くは残ってました。この地区では牛の面倒みながら3人残ってた。

4月22日の警戒区域になる時は葛尾の同級生のところに避難しました。その頃はまだ草があったんで、巡回程度には通いました。
その後葛尾も避難区域になって、猪苗代に避難したんです。猪苗代に行った時に、牛が死んだりしてたのもあって、衛生面も管理するのに立ち入り許可がもらえるようになったんですね。それからは1週間に1回くらいは通ってました。8月に二本松の仮設住宅に移ってからは1週間に2~3回通えるようになってました。

避難後、大字の総会があったんですけど、その時に当初は牛を生かすということで、農地を荒廃させないために牛を放すというのが基本にあって。それで色々意見はあったんですけど、目的があるのであれば生かしてもいいというのがあったんです。小丸の農地管理と防火のためにもいい事だから、牛が家などを荒らさないというのを前提として。田んぼについては電牧張って農地保全しようという事で了解をもらったんです。そういう飼い方をすれば、牛のためにも殺処分よりはいいと。ただ、国は最終的に肉とする商品性がないから殺処分しろといったけど、牛は生かしてきた。我々も生かしてもらってきたからね。これまでの人間に対して与えてくれた恩恵、そういうものを大切にしたいですね。

基本は震災前から、耕作放棄地をいかに有効に利用するかというのがあって、そういう考えの中に牛を飼って、集落の耕作放棄地の荒廃をいかに解消しようかと放牧規模を拡大しながら始めてた矢先だったんですね。なので、震災後も立ち入りができなくなったから、農地保全を引き続き牛にさせるっていう事なんですよ。ただ、この集落の中の牛を預かりましたから、頭数は多くなりましたけど、これだけの面積があれば十分管理できるのかなと思ってます。足りない部分は、ロールをもらってやったり。

2011年5月に殺処分通知はきましたけど、同意しなかった。
共同牧場は私のだけじゃなくて、この集落の牛もいるんですよ。6軒かな。今は井出地区の柴さん(7頭くらい)と、高瀬の原田さんの牛(3頭きて1頭死んだ)もいるし。高瀬の原田さんのところは除染が始まる前に処分したんですよ。思い入れのある牛だけはこちらに預かって。
震災当時、飼ってたのは20頭くらいで、そこに集落の牛も含めると100頭近くいました。震災後生まれた牛もいたし。

今は浪江の公営住宅に住んでます。ここはしばらく解除されないし、除染もするかどうかわからないし、当面は面倒みるというか、いなくなってしまったら農地が荒れる一方だから、こういう形で牛に除草してもらう、そういう状態が続くでしょうね。見通しがいいからイノシシの害も少ないですね。

「和牛改良友の会」は、いい牛を作るために、県外から導入したり改良したりしてました。種牛が九州に多いのは、伝統文化として根付いてんですよね。だから、むこうで殺処分ていったら大変ですよ。宮崎の口蹄疫の時も、殺さないでいた牛もいたはずですよ。それくらい牛に対する情熱ってのは違うんですね。和牛の先進県てのは昔からずっと続いてて、続いてるからいいものが作れるんですね。だから、双葉でもそういう気持ちがあれば、口蹄疫とか伝染病じゃないんだから。影響とか肉とか調べないで、それで殺処分て、それはないんじゃないかと。それに農家が怒って声をあげればなんとか処分しないで済む事ができたんじゃないかな。どこかに移すとか、優良な牛残してとか。説明会で集まってきた時に、団結してそういう声をあげられなかったのかなと思うけど、そこまではできなかった。

研究会(原発事故被災動物と環境研究会)は、我々が牛を生かし続けるというのであれば、という事で始まりました。なんか考えなきゃならない、どういう影響が出るのか。土壌と空間線量がどんな形で減衰するのかとか、まして実際フィールドで大動物の影響のデータがとれるというのは本当にここらへんが始めてなので、そういうのをただ処分して何も残さないのでは何にもならない。将来のためとか、どれだけ影響があるとか、データを残して、将来、万一次に何かあった時に対応できるように、安全安心のために、何重にも安全対策ができるんじゃないかなというので、予算をとってもらって研究会を立ち上げたんですよね。積み重ねていかないとね。7年間生きて来た貴重な牛なんですよね。何頭かの犠牲はしょうがないと。例えば100頭いて3頭調べれば97頭は、生き延びることができる。それを考えれば全体で生き延びて、データを積み重ねていければそれが一番いいんじゃないかなと。私のところに100頭近くいた牛も、最初は年に4頭~8頭くらい解剖して。2年目からは、臓器や血液に蓄積するセシウムとかだいたいわかってきたから、解剖しなくて血液検査だけで、解剖する頭数は減ってきて、いまは進めてないです。

「和牛改良友の会」では、元々の牛から代を繋いで繋いで、ずっと続いてきたものなんですよね。そうやっていいものを作ってきたっていう経過の中で、この牛は全部処分して、新しい牛導入してって、そう一言で割り切れないんです。血が途切れちゃうということなんで。そこがひっかかってるところなので、そこをクリアできないのかなあと悩んでます。ここには4代続いてる牛もいるんです。自分が作ろうとしていたものが揃い始めた時なんですよ。いまはただ残念です。

今まで自分なりに前に進めてきたつもりなんですけど、ここからまた前に進むというのは、将来的にこの牛の子供がどういう影響があって、これから繁殖として使えないのかというところなんですよね。7年も生き続けて、影響が出てこない中で、この牛の子供まで調べていくというか。そういう事まで進んでいければなって思ってるんですよ。この震災の中で生き延びてきた、頑丈さ、強健さっていうのも、ここの牛自身は持ってると思うんだよね。例えばここの牛から受精卵をとって、他の牛に体外受精はどうなのかっていう。そういう技術を進める事もいいんじゃないかなと。それが希望をつなげるというか、支えになってると私は思うんですよね。

2018年1月取材
文/写真:平山"two"勉